那珂川町5 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします  

①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある



  

  武茂城
 本城  西城  東城(写真掲載のみ






武茂西城位置(マピオンへのリンク)

        このページでは、武茂城を、
                 
武茂本城、武茂東城、武茂西城と分割命名し、解説している。

                            マピオンより 

那珂川町新城確認第5弾 武茂西 2012/04/07


 
武茂本城(※静神社の鎮座する城)
武茂東城は、所謂武茂氏の拠点として有名である。


いつだったか【
武茂本城の西側の台地にも、さらに城がある】という、地元の方の話を聞いたことがある。

本日は武茂本城の調査をするつもりだったが、


期待しないで
、まず武茂本城の西側の山を登ってみることにした。


























ぁりゃ!







えっ!







またあぁ!!






  
          



で、仕方なく図面を書いてみれば、








 



お陰で、武茂本城の図面が書けなかった



 那珂川町、スゴすぎ。  





 
【解説】

いままでは、静神社の鎮座する武茂本城を、『武茂西城』としている資料またはホームページが散見する。
しかし今回の発見により、それでは区別がつかなくなったので、
              西から 『武茂西城』『武茂本城』『武茂東城』とさせていただこう。

              マピオンより 


武茂西城の横堀の規模、その使い方や土塁の回し方は、武茂本城と酷似している。
このことから、西城と本城は同一の築城者であり、両城は守備、攻撃面で関連付けされ構築された。

武茂氏は16世紀中頃から佐竹氏の配下にあり、領土西側の那須氏と幾度となく戦いを繰返している。
西城は、西面に下る長い堀の配置から、那須方向からの攻撃に対し、武茂本城をサポートするために作られたのだろう。

この城は、武茂氏が佐竹氏の配下になってから秋田に移るまでに作られ、(または改修され)、
その築城技術には、佐竹氏が大きく関わったと考えられる。


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 車は馬頭中学校の送迎スペースに置かせてもらう。 

          

  
 
  
 地元では成田山と呼ばれた廃寺から上がってくると、早速堀切がある。

     





 

    

    堀切を反対から臨む。







 
  曲輪内を覗いてみると、土塁があるではないか!

    






     



  

 




 斜面を一直線に登るる堀。
 現在、この堀を利用して遊歩道(すくすくの森)が整備されている。

 後日、静神社の関係者の方に伺うと、当地が『城であった』という認識は昔からあるようだ。

 じゃあ、遊歩道整備ついでに、もう少しPRしてもいいのになぁ~


  
  


堀を廃寺方向に見下げてみる

   



  堀の中の折。横矢効果を狙ったもの。




     










       

  最上部の堀切は堀切を回す。

  




  最上部堀切と主郭を臨む



  




 
 最上部の堀切から、公園までの途中には、
 遺構らしきものはない。














 
 
                 





 さて、
 堀は、成田山という廃寺の造成で破壊されていると思われ、
 かつては図のように、斜面下まで伸びていたと考えられる。(
部)
 



 また、確かめ算として、西城の更に西側の山にも登ってみた。
 しかし、すべて馬頭院の墓地となってしまっているため、
 遺構があったかどうか分らなかった。

 










 道沿いにはショウジョウバカマが群落を作っていた

                         
(完了)



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