2019





那須烏山市
  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。


烏山城 古本丸  本丸   西城  3の丸 12曲がり   7曲がり  発掘現場




烏山城  位置(マピオンへのリンク) 

 烏山城縄張り図完成 2011/02/05

copyright. 2011 masaki

     
苦節、5年。

     ついに完成!


     何しろ曲輪の一つ一つが大きい物だから、時間が掛かってしまった。

       
でも、出来上がってしまえばこんなもんなんだな。


      

           ◆中央が烏山城


 ※お断り

 山麓では、”七曲り”と”十二曲り”間にも段差が認められた。
 
 屋敷跡の可能性もある。

 しかしそれらは現在、ほとんど畑として利用されており、どこまでが往時の物か判断できない。

 また、古絵図にも、この間に屋敷が描かれておらず、今回は縄張り図に表現する事を控える事にした。


  
  
烏山城の彩色図を作った。

以後、この図を使い、解説をして行こう。





【解説】

●古本丸・・・いにしえの本丸?
 

 2010年、旧本丸といわれる発掘現場。

 全面発掘となった。



 左写真は、本丸と古本丸の間の堀。
 右手に、小さな横矢が掛かっている。


 



 
 かわらけや釘・瓦片・礎石・柱穴等々が発見された。
 古本丸が大規模に造成されていることもわかった。




 発掘前は、不明確だった西面の土塁も、
 1mほどの高さになった。


 
 後述するが、この城の西面に対する防備は
 半端ではない。
 
   






 
         

●本丸・・・良く残る石垣門

      本丸のメイン遺構は、なんと言っても ”正門” 跡である。

      まず、下の正保絵図を見ていただこう。
      


ご覧のように、正門は櫓門であった。

門の両袖には石垣があり、

門を入ると右に一折れして、本丸内部に入る。













 現状も全く一致。


      
                   


感動したのは、
正門から主郭内部への石段がきれいに残っている事。

掘ったら、もっときれいに石段が出てきそうだ。










                  さて、正門の両袖の石垣を見てみよう。



 

 

 本丸に入る方向に向かって、右側の正門石垣。
 正門の角石は崩されてい感が否めない。。








角度を変えて、もう一枚。

門の部分だけ、石垣が張り出している。



















     



今度は、
本丸に入る方向に向かって、左側の石垣。










 








       

     袖の形がよく残る。
     絵図に描かれた石垣そのものだ。
     
     約400年前の世界がここにある。







 正門を本丸方向に再び入る。

 門を本丸側から望んだ写真が下だ。

 絵図どおり、本丸の内部のみ石垣が施されている。


正保絵図ではこの方向から望む。


縄張り図ではこの方向。





 

別の絵図を見てみると、やはり石垣は正門の袖の部分と、本丸内部のみ。

本丸内部の石垣は、正門を入らないと人には見えない。
普通は、威厳を外部に示すために、
本丸外側に ”見せる” 石垣を施す例が多い。

先日、宇都宮市・岡本城でも、内部からしか見えない石垣遺構が見つかった。
このような例って、栃木では結構あるんだなぁ。










さらに、2011年の発掘調査では、
正門に続く土塁の城外側の基底部が、石垣である事がわかった。

土の中に埋まっていた為、私の調査でもわからなかった。


これはすごい!

絵図を見てみると、この場所は狭間のある白壁のライン。

この石垣は正保絵図にも描かれていない。
これは、気づか(け)なかったなぁ〜。


    ←縄張り図ではこの部分



                     
            別の絵図でも見てみよう。
          
◆国会図書館蔵 野州烏山城 掲載許可NO 国図企 100104004−1−2896号

            やはり、白壁の下には石垣が描かれていない。
            絵図の作者も、白壁の内側から調査したから、
            壁外側の石垣には気づかなかった?・・・と言う事なのだろうか??

     
 

●西城・・・烏山城の一番

     
実は個人的に、烏山城の一番の見所は、この西城だと思っている

           ここは城の中枢部からは離れているが、
           城郭ファンには 『これでもか!』 という程、面白い遺構の連打、連打なのである。



             


 では、その見所をご紹介しよう。
 まずは、西城中枢部。
 上記縄張り図で、”西城”と銘打ってあるところをご注目いただきたい。






右図のように西城メイン虎口は
部分。

城外から2方向の道が
で一点に集約する。
その先、道は2手に別れ、
西城内部に導くような形になっている。



の手前には、大きな礎石大の石が転がっており、
この虎口に設置されていた建造物が想像される。





 ◆西城虎口に転がる石

 
 
 礎石と思われる石。
 撮影方向は上図。
 虎口のど真ん中に今はあるが、
 元の場所は別であっただろう。









    石と虎口の関係は、こんな感じ。夏の撮影なもので、草が多くてスミマセン。

     ◆マウスを乗せよう。






  
さて、烏山城の古絵図を見てみよう。

  古絵図でも西城と思われる曲輪が表現されている。
  西城は『侍屋敷』とか
『西曲輪』とも言われていたようである。


  
 


 左の正保絵図では西城は『侍屋敷』と書かれている。
 絵図の
赤い線が城道であるが、この曲輪への入り口は一つである。

 管理人縄張り図のように、2つの道が1本に集約される姿ではない。
 となると、現状の道はどちらかが後世に作られた物なのか・・






◆正保絵図より




    
他の古絵図を見てみよう。


       


小さくて申し訳ないが、この古絵図には
『西城』と記されている。
正保絵図と同じく、虎口は1本である。


◆東北大学付属図書館蔵 烏山城下図 折 一枚 寫本  (掲載許可整理番号19−243)



 さらに他の古絵図を見てみよう。
 やはり、下の2つの図でも、西曲輪に入る道は一つである。

 ただし、右の古絵図には、建築物が描かれ、
 
西曲輪の入り口に長屋のような門にも見える建築物が描かれている。
 現地に残る礎石を使用した建物なのか??

 想像は膨らむばかりである。


      
     ◆両図ともに国会図書館蔵 野州烏山城 (掲載許可NO 国図企 100104004−1−2896号)

 





  
では、西城より西の遺構を紹介しよう。
  便宜的に、曲輪に@からEの番号をふってみた。


     


 ご覧のように、西城@より西は尾根続きと言う事もあり、執拗なほど堀を重ね、厳重に固められている。
 しかし、不思議なのは、上記4点の古絵図にA〜Eが明確に描かれていない。

 これは、

 
古絵図の成立した時期には、
        A〜E曲輪が機能していなかった事を示す物ではないか?
 
 と管理人は考えている。

 紹介した4つの古絵図は江戸初期のもの。
 
つまり、江戸期にはA〜E曲輪はあまり使われていなかったと想像できる。





 
さて、目を個々の曲輪に移そう。

 
Aの曲輪
 この曲輪で特徴的なのは、明確な
コの字型の横矢と堀があることである。
 実はこの城で、このような形式の横矢があるのは、ここ一箇所だけである

 ◆Aの突出部マウスを乗せよう
  



          
 Bの曲輪
 Bの曲輪には明確な虎口が残る。
 また、これと連動して、BとCの曲輪間の堀端にも虎口が残る。

 堀の中に虎口があると言う事は、
 この西城部分では、
堀底を道として利用していた事が証明された事になる。


    BとCの曲輪間の堀切底。その最南端にある虎口を撮影。
    


 Cの曲輪

 CとDの間の堀は、A-B、B-C間の堀より規模が落ちてくるが、尾根をばっさりと南から北まで分断する。
 C-D間の連絡は、堀に橋を架けていたことも想像できるが、明言できる遺構がない。
 管理人としては、現在も道が残る、堀の南端を連絡通路としたのでは?と考えている。


    CとD間の堀切
    

    CとD間の堀切は北斜面を下る。それを見上げて撮影
    


 D、Eの曲輪

 草が多く写真は撮れなかったのだが、D-E間にも土塁を伴った浅い堀が尾根を分断する。
 この堀が、烏山城の西限である。


    Eの空間。
    さすがにここまで来ると城外で、未成形な緩い自然地形が西に続く。  
   



 今までの遺構から、西城部分の@〜Eの連絡について考えてみる。



 通常これだけ曲輪が重なると、曲輪間の連絡の遺構があるものである。
 @〜Eへどのように人が移動していたかが、ほぼ理解できる。

 
しかし、ここ西城近辺では、明確な曲輪間の連絡が見えてこないのである。




 いろいろ思案を巡らせたが、現在、管理人は、

 
 @-Eには明確に曲輪間の連携は無く、それぞれが独立していたと考えている。

 もちろん、発掘を伴わない地表面調査での見解だが。
 ただ、今まで見てきた古絵図にも、本丸方向へ連絡が描かれていないという事実がある。
 まんざらでもないかもしれない。




 どちらかというと、
 この西城周辺の真の目的は、

 西城の立地する
緩い尾根を完全に@〜Eの曲輪で切り刻むことにあったのではないだろうか?




 時として曲輪間の連絡通路は、城の中枢部になだれ込まれる弱点ともなる。
 ここでは、それぞれが独立する事によって、弱点となる要素を完全に排除してしまっているのである。

 そうなると逆に、城方の人たちは、もし敵に攻め込まれたら、退路が無い事になる。
 まさに背水の陣で、@〜Dを守る城内兵は戦う使命を与えられていたのだろう。
 まさに片道切符、特攻隊のようだ。


 もう一つ注意したいのは、もし”人員移動できない曲輪の一つ一つに城兵を配置ができた”と言う事は、

 
烏山城内兵が、非常に多かったのでないか? という事である。
 
 一つ一つの曲輪に守る専用要員が居た事になる。
 それは、とりもなおさず、それなりの人数が居ないと対応できない。






一方、
この@〜Eの曲輪の南の谷には、
烏山城の搦め手・神長口がある。
この神長に対して、
西城には、どのような連絡があったのだろうか?


図面を見ていただこう。

神長口から上がってきた城兵は
図の
で上がってくる。

道はCの南下を通って(現在も道が残る)、
Bの曲輪に至っている。


しかし、先ほどから述べているように、
それ以上、本丸に近づく事は出来そうに無い。





   では、

      神長口方面から本丸へはどのように連絡していたのか?


   絵図にも描かれていない所だが、考えてみるに、
    一度Fの曲輪に入ったのではなかろうか。 
     その後、@Aの間の空堀を伝って、本丸に到達するルートがあったと考えられる。




 
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