宇都宮市 2 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします 



 ◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
   この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
   (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
 ◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。  

多気山城sk(一部) 徳次郎城  



多気山城sk(一部) 位置(マピオンへのリンク)

【解説】

多気山城へ行ってきた。

この城の広大さは、下図を見ていただければ分かるであろう。
とても、一日、二日で書ける図面ではない。
今回は、関口氏の図面を拝借させていただき、城を巡ってみよう。

なんといっても、多気山城の遺構は山を南半周巡る空堀である。

        

          
             ◆関口和也氏原図・・多気山城(東半分)
           
                  ◆平入りの虎口 

山麓の空堀には、写真のような平虎口が多数ある。それも、この外郭遺構の特徴である。


     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 




さて、多気山にはかつて上記の堀以外に、さらに外側を囲う堀があった。


それが
【割田(わった)遺跡】である


先述の多気山を取り巻く堀と、
道路を隔てた小山に、割田遺跡は存在する。




























                          ◆関口和也氏原図多気山城(東半分)


                     






平成4年の発掘調査で、約300mに渡る空堀が見つかった。
そのときの報告書の一部が残っていたので参照しよう。

古墳と共に、両袖に土塁を配した空堀が確認されている。

性格的には、先述した山麓の空堀と変わらないものであろう。
今は城西ニュータウンとなり、壊滅している。











        ◆発掘当時の割田遺跡 関口和也氏撮影

実はこの割田遺跡にかつて私も来た事がある。
草の無い小山に、長城のように伸びる堀がとても印象的だった。

自分で写真も撮った気がしたが、16年ぶりに探してみると一枚も出てこない。
そこで、関口氏に左の写真を提供していただいた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
また、多気山山中には技巧的な虎口も多数存在する。
それを紹介したい。

下の写真をごらん頂きたい。
場所は縄張り図の”
枡形虎口”と書いてある部分だ。
                  
                   ◆関口和也氏原図・・多気山城(西半分) 

                 
                                

          んっつ!!???
       なんじゃこりゃ?
          さっぱ、わからん。。。




と、誰もが思うであろう。

この写真を見て、遺構が想像できる方は素晴らしい。

そう、
ここは
縦堀連動させる大きな枡形虎口なのである!!

写真に色をつけてみるとこんなカンジ。
(カーソルを上にしてください)
破壊が激しいが、なるほどよく考えられた虎口である。


         

         

谷あいを山下からあがってきた敵は、縦堀で斜面を登れず、谷を直進するしかない。

反対側の斜面も横堀があり、登れない。
大きな縦土塁の影に、虎口が潜む。
突破した中は、大きな枡形空間だ。

         
             ◆虎口付近図copyright2008 masaki


          ◆縦堀は下記の様に森林伐採で破壊されている。
               大きな縦土塁なのに。
               もったいない。。。。
          

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さてさて、さらに山上へ登る。

しばらくテクテク登っていくとその先に・・・


        

ありました!枡形門。しかも綺麗!典型的!

場所は下図の枡形虎口2と書いてあるところ。

         
                ◆関口和也氏原図・・多気山城(西半分) 



片側のみ(向かって左)土壇状の土塁を伴った枡形虎口。
櫓を設けるには、面積が無いので、壁のみであったと考えられる。         

            ←画面上にカーソルを!

                ◆これまた、綺麗な枡形門。
                  久々にみた感じ。

           
             ◆虎口付近図copyright2008 masaki

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今度は、山麓の虎口を見てみよう。
下図、”
虎口3”の部分である。
縄張図では、虎口3の周辺は、一瞬、居館のような空間にもみえる。
しかし、現地に赴くと、ここは、中途半端なダラダラとした斜面となっており、居住するにはちょっと・・・
という感が強い。

      
              ◆関口和也氏原図・・多気山城(西半分)

下の写真は、この緩やかな斜面内部。
画面下部から、画面上部にむかって、ゆっくりと下っているのである。
写真左手には、大きな縦堀が並行している。

ここを下りきる直前に、虎口3がある。


    


右が虎口3の縄張り図である。

かつては、土橋があったかもしれないが、今は判然としない。
ルート(緑)に対しては、横矢や、虎口前の張り出し状の土塁で防備している。

遺構が斜面上に構築されているため、虎口前から見る上部横矢の張り出しは、高くそびえて見える。
脅威を感じさせるものである。
これも、視覚効果を狙ったものだろう。









             
虎口3の上部へあがり、曲輪内を見上げてみる。
縄張り図内の赤線範囲が下記写真。

この曲輪と縦堀と平行する端面を見てみると、
縦堀に近い”ヘリ”の部分だけ平らにならしているのがわかる。

敵兵を攻撃するとき、城内兵が移動しやすくするためだ。

近世城郭でいう
 
『武者走り』
である。
 

               


                ◆ カーソルを載せると、図の意味が分かります。


堀際の端面の加工みで、曲輪内部の加工は施されていない。
ということは、縄張図上で居館のように見えるこの空間は、外周部のみ使用していたことになる。

このことから、

当曲輪は、戦闘時に外周部のみが使われたものと言えよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最後に、多気山城にも石垣があるという情報を入手した。
早速出かけてみた。

石垣は、山麓部分の堀周辺に点在する。
写真の石垣は、山麓の堀の最西部の虎口脇に存在する。(水神入口上部の曲輪)
防御、攻撃のためというよりは、土塁の強度UPとして、用いられたようにも見えるが、掘ってみると結構な規模なのかもしれない。

     
                       多気山城・完



番外編・雲雀鳥屋付近【2010/10/23】

            
            
            ◆雲雀鳥屋を望む

雲雀鳥屋(ひばりとや)は、標高326mの山である。
この山は、宇都宮氏、終焉の城・
多気山のすぐ隣(北方)にある。

”鳥屋=とや”は”
塒屋場(とやば)”の意であろう。
狩りの時に猟師などが、鳥を狙い寝泊まりした場所の意である。

標高からすれば、多気山より若干低い事になる。



     ご存じの通り、多気山は城域の広い城である。
     全山を加工した様相は、まさに、宇都宮氏終焉の城としてふさわしい。

     その様に広大な城域を持っ多気山に、雲雀鳥屋が取り入れられる事は、おかしな事ではない。

        管理人は、息子と二人、今シーズンの足慣らしを兼ね、登山を試みた



           聡明な読者には、ここまでで結果はもうお分かりであろう。
        本来であれば、
        当ホームページの ”よもやま話” に書くべき話であろう。
        しかし、あまりにも多気山に近い立地のため、この項に収める事とした。



               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

              

 今日は、たまたまサイクルロードレース・ジャパンカップだった。

 予定外の事で、車で近づけず、多気山の駐車場に車を止め、登山口まで歩かされた。

           
 雲雀鳥屋登山口。  

 ここで、たまたまオープンレースの集団に出くわす。


 ジャパンカップって、 
     結構なレースなんだなぁ。






   あんま興味無いけど・・・・・・・・・。















 さて、登山口は、この神社。

 現地では何神社か、わからない。

 ネット地図で調べると ”ごんげん神社” と記載がある。

 ここから先は、誰かが木々に付けたピンクと赤のテープが、道標だ。

             

 踏み跡程度の道が、不安にさせる。

 雲雀鳥屋までには、小さなピークを2つ越さなければならない。

                


ほどなく第1ピーク、第2ヒ゜ークに着くが何もない。。
◆第2ピーク

しばらく行くと道は2つに分かれるが、右を選ぶ。

            



         ほどなく、雲雀鳥屋山頂に着いた。
      
      山頂は暗く、視界も効かない。
                
      遺構はない。



             多気山城の南方の後北条氏からの攻撃を想定した多気山城には、
             北からの敵の侵入を想定する必要も無かった。

             よって、雲雀鳥屋に城を築く必要もない。

             そんなところだろうか・・・・。

 ◆折角だから写真を撮ろう

              ◆山頂
  
       山頂で、遅い昼食をとり、元来た道で下山した。
     
     全工程1時間30分。
     
          
    
     シーズン開始前のちょうど良いトレーニングだった。




雲雀鳥屋位置(マピオンへのリンク)






ホームへ

徳次郎城電子国土・位置へのリンク 


copyright(C).2011masaki
【解説】
1985年の調査結果である。
少々、難あり。
残存は良好である。
図の主郭外側の曲輪の上部から2番目、左から右に田川に向かって延びる空堀は、
道路として掘り下げられた可能性もある。


 再訪2・徳次郎城 2011/10/08
 ◆まだ途中です。
               
【解説】

娘のサッカーの迎えまでに2時間30分ほどあったので、徳次郎城へ行ってみた。
前回来たのが、1985年であるから、なんと
26年ぶりの再訪である。

まだ、秋も日が浅いが、草も大分落ち着いているようだ。
しかし、まだ蚊がいるぞ! 早速顔を刺され痒い、痒い!


午後2時。
意を決して、藪に突入!タイムリミットは午後4時30分。
描きだしたのはいいが、主郭の形が合わない、合わない。

今シーズン初めの茨城県の長者屋敷でもそうであったが、いきなりの四苦八苦。
徳次郎主郭は基本的に四角形のようであるが、微妙に頂点角度が90度ではない。
おまけにやたら広い。一辺100メートル以上。
ここで思わぬ時間を消費してしまう。

          ◆主郭虎口(左)

   
  ◆内堀                  ◆内堀(正面は田川)


さあ、次は外郭だ。

             
 わ!でかい!
                  なんだこのでかさ!

これまた合わない!
昔一度描いたのに、なんでこんなに合わないんかなぁ。

…とまぁ、線が納得行くまで、同じ所を行ったり来たり。

結局、全部書けずに時間切れ。
また、中途半端な城を作ってしまった。


   
  ◆外堀                      ◆外堀


家に帰って、1985年の図面をみてビックリ!
パーツ等の見落としはないものの、曲輪の形が全然ダメ。
微妙な角度に悩まされ、つじつまをあわせたのか、とんでもない主郭の形になっている。

まあ当時は方位磁石も持たず、全て方向感覚だけで描いてたから、こんなもんかな。
俺も、ケツが
青かった


本来は、恥ずかしくて削除したい図面だが、自分への(いましめ)として、このままにしておこう。
こんな図面を描いててはダメだ!

   
       ◆1985年             ◆2011年 作図途中


しかし、26年前に一度来たはずなのに、図面を描いた記憶がほとんどない。
ただ当時は、主郭と2の郭の堀から、直接田川に降りる事ができた。
その川の美しさに、ペンが止まった事だけは鮮明に覚えている。
あの頃はまだ東京に住んでいたから、その感動もひとしおだったのだろう。
まさか、あの頃は自分が栃木県民になろうとは、夢にも思っていなかったから・・・・・。

いま、その場所は田川に直接は降りられず、堤防ができている。
時の流れを感じずにはいられない。



◆ソバ畑の向こうが徳次郎城


 再訪3・微妙な角度を持つ徳次郎城 2012〜3第8陣   2013/01/06
 
何しろ歩測が合わない。
これが、この城の攻略しづらい所。

理由は、曲輪の一つ一つが広大だからだ。
ちょっと辺の交わる角度がずれると、末端では大きく10歩、20歩と測定結果にズレが発生してしまう。
いくら、方位磁石を駆使しても、この微妙な角度は読みきれない。





そこで、今回、参考にさせてもらったのは、左の航空写真。
これに、そって微妙な縄張り図の角度変更を行い、
浄書していこう。











 いつもの様に徳次郎城の入り口。

 ”あっ!ちかん、すぐ110番”が目印だが、
 なんとも気まづい。
 (別に、私は痴漢じゃありません)


 

 徳次郎城は、遠く奈良時代、
 日光関係の”くじら一族”がこの地に移り住み、
 その治めた領域の外を”()くじら”と称し、
 現在の地名になったと言われている。











  城は田川沿いに見事な遺構を見せる。栃木の平地城館としては、保存度が極めて高いと言って良いだろう。


              

 
 
【解説】


さて、この城は、近代の改変が多数見受けられるので、そのあたりから考えてみよう。

 



いろいろな解釈があるようだが、

管理人は、
大きく
城は2郭構造だったと考える。





根拠は、米軍撮影の航空写真。
二ノ郭
A・B郭と、その外側E郭は、完全に耕作されていた。



しかもE郭の堀?は幅が異常に狭く、
畑の根切り跡のような気がしてならない。






















城の外郭として、他の資料で紹介されているF・G郭

F東に段差と堀状の地形があるものの、城としてのつながりが見受けられない
古墳がそのまま点在しているところも、”未加工”の裏付けと見た。

F,G間の溝も、耕作の跡となのではなかろうか







                      



主郭の虎口であるが、東のものは明らかに、破壊跡
理由は、1985年の筆者調査時には無かった。
西のものも、大きく破壊されている。
1985年調査時では、主郭に上がる細い坂道があったが、これも本来の物か疑問。
         

唯一、
主郭の虎口と判断できるのは、南側の虎口。
ここなら横矢もかかり、ベストポジション。
また、同じ理由で、二ノ郭から外部にも下図の場所に橋が掛かっていたと考える
        




Bの二の郭北の堀は、城の機能としては意味不明な部分


築城者が、主郭に簡単にたどり着けるような通路を作るだろうか?
管理人は後世のものと考えている。






C,D郭の間仕切りは、往時の物と考えた。

理由はD内に土塁がしっかり残っているからだ。
このため、破壊をまぬがれていると見た。

浅い堀で仕切られていたようだが、C&D間の連絡はよくわからない。





上記の間仕切り方が当城のパターンだとしたら、
Aの両脇の溝も、往時の間仕切りの名残なのか?
ただし、Aは前述したように畑になっていた履歴があるので、判断に苦しむ所。

ここでは、一応畑痕としておこう。





     しかし、この城の堀は大きく、長い・・。
     この堀の長さと、方向が、図面描きに大きく影響する。
     写真の部分は箱堀状になっているが、ここから先に進むと、両側の壁が高くなり、堀内部も狭くなる

 



また、この城の堀端を見ると、
最北部のものを除き、全て田川の河川敷に降りられるようになっている。


現在は堤防もできて、城の袂に水は満ちていないが、
かつては、直下に川が流れていたのではないだろうか。


つまり、
田川の水運と結びつきが考えられる。
田川を下れば、宇都宮城である。・・・・
@





  一般的に、出典は勉強不足で知る由もないが、
  当城は宇都宮氏配下・新田徳次郎昌言によって築かれたと言われる。
  日光勢力の監視として築かれたというのが通説だ。



  改めて城の縄張りをよく見ると、
  
日光方面である北方面には三重の堀が配置されている・・・A

  また、虎口と思われる2つの橋が、
北からは見えないように
  曲輪南に配置されている
・・・
B


  以上、縄張りの特徴
@〜Bにても、
  この城が北(日光勢力)を意識しているというのは、納得できる事実だ。






 
                
(徳次郎城コンプリート)






ホームへ

inserted by FC2 system