2019




栃木市4
  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。  

箱森城 無名城館


箱森城(地籍調査)位置(電子国土へのリンク)  

 比定地を否定 2013/08/13 
 

 箱森城(御辺城)の比定地は、
 地元本や他ホームページでは
『箱森町の鷲宮神社付近』とされ、遺構の無い城とされてきた。


 
            しかし、    それは誤りでは?!


 ・・・なんで、そう言えるかって??



 
なぜなら、栃木市の地籍調査で


                      や  か た
    
鷲宮神社の北西に、字 舘堅  を発見してしまったからである。


         

 鷲宮神社は字”御邉”(この城の別名)に属するが、城館関連地名とは言い辛いのではなかろうか?

         
              「この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。」




 
この字 ”舘堅(やかた) ”の周りには、水堀と思しき水路がぐるりと回る。
 水路の内側には、四角い空間も見られる。

 ここが、城の中枢部であり、
            ここが箱森城本体なのであろう。





 
刊行本『栃木県の中世城館』の記述では、”鷲宮神社付近も城域”と含ませている。
 それがいつの間にか箱森城となり、所在地の誤りに繋がってしまったと考えられる。
 

 





 
@地籍図A地点を探ってみよう。
                          
「この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。」
       

 さて、現場に行ってみると、なるほど、地籍図どおり現在も水堀の名残が見られる。

 今は、この様に細い2条の水路となっているが、奥をたどってみると・・・・・・

 


 水路は池状になっており、なるほど!幅のある大きな水堀であった事が伺える。

            


     一部は宅地の調整池にもなっている。

     



 A地籍図B地点を探ってみよう。

                         「この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。」  
     
  

  B地点を探って北側にやってきた。
  水路は、かなり細くなっているが、今も健在する。

 

                             


 写真は、B地点に残る切岸。
 断言はできないが、箱森城の堀壁だろう。





















 

          箱森城はある意味、”遺構のある城”と言って良いのではなかろうか。

                                      (完了)


                    







無名城館(川原田城位置(電子国土へのリンク)  

 名も無く貧しく美しく 2013/08/14  
 
栃木県の発刊する『川連城』の発掘調査報告書を眺めていると

                ”無名城館”なる記載がある。

            確かに、どんな本にもHPにもこの城?の情報は皆無である。




 機を別にして友人が持ってきてくれた陸軍の迅速図。

 残念ながら許可をどこにとって良いかわからず、掲載不能であるが、



                 これを見て
ビックリ(・∀・)



 迅速図には、”無名城館”の地に、大きな土塁が描かれていたのである。


 なるほど。
 だから無名城館なんだ!と、この時わかった。










 さて、現地に趣いてみよう。

 





 
現場近くにある鹿島神社。
 城と思われる場所は、神社と通りを面した反対側。


















 


 最初はこちらのお宅の敷地が怪しい?と思い、
  あたりを散策。

 しかし、迅速図に描かれるような土塁は皆無。

最初
















 
 仕方が無いので、このお宅の周りをもう少し観察。
 お宅の東側には水路が流れ、それ伝いに用水路の跡の様なものが続く

 ししかし、遺構とはとても言えない。










 
 
 裏の田んぼに回ってきた。


                   

                   


   なーんも、()〜な〜。


         田んぼ、ばっかじゃん!

         そろそろ腹も減ったし、撤収・・・・・・・・・



  





    と、帰ろうとした私の脳裏にデジャブ。





 
        あれ?? 


 




  今の田んぼの風景・・・つなぐ・・・と












 


                COOL!
                
               
これ、(ほり)ジャン!






 
 
 
「この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。」 




 この城を訪ねる時、航空写真を見ずに
 現在の地形図を確認して出かけた。


 ご覧の様に辺り一帯は田んぼであり、

 直感的に
「あぁ、ダメだな・」と思っていた。


 遺構の残存は、全く期待していなかったのである。

 




 

 しかし、結果はお話したとおり。
 
 
『事件は現場で起きている』・・・やっぱ、現地調査は欠かせないな。

 と、改めて思うのである。






 
 


 
より  


 

 航空写真を見て頂ければ一目瞭然。
 あたり一帯に田んぼが並ぶ中、
 なぜだか、L字型にクランクした田んぼが浮き出ている。



 ”かつての堀跡が田んぼになっている”
             と、考えるのが妥当であろう。




 






 



 さて、
 
 明治初期発行の迅速図には、当地に大きなL字型の土塁が描かれている。

 この城が紹介された川連城発掘調査報告書の発刊は、昭和57年である。


 つまり昭和57年頃までは、土塁(堀)がまだあったと考えて良いだろう。
 

 昭和57年以降、田んぼとして耕地整理された時、土塁が崩され、堀内に投棄された。

 しかし、完全に堀を埋めることができず、現在の姿になった・・・・
 


 
 

  つまり、かつては、こんな感じだったのではなかろうか!?


   
                                  


 

 






 よく観察すれば、西端辺に一部かつての土塁の残欠もある。

















 図面にすると、こんな感じだ。北は左横になっている。

                








     ただ・・・

 気になる事がある

 そう、聡明な読者の方はお気づきであろう!

          異常に、城の範囲がでかいのである。







   短辺(東西)で約70m、長辺(南北)で約150mはある。


 県内には、近代に屋敷囲みや神社の敷地境界として、土塁・堀が築かれる例がある。
  戦時中の施設とも考えられる。

 今回は、川連城の調査報告書の中身を尊重し、本HPの紹介に至ったが、

 
「本当に城なのか?」と言うところでは、今後も聞き取りなどの検討が必要であろう。
 


                (川原田城? コンプリート)

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