2019




栃木市3
  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。  

大宮城sk 小山西城


大宮城(部分)sk位置(電子国土へのリンク)  



 破壊された遺構は点々と 2012〜13年度第15陣   2013/04/30
 
 ひょんな事から、この大宮城の縄張りの解説をして欲しいと頼まれた。
 所謂、ボランティアである。

 しかし管理人は、この城を見た事がない。
 そこで、下見調査に出かけてみる事にした。



 天気がイマイチであったが、雨に降られることもなく、なんとか見学できた。




 
 城は農村地帯の中に残る。
 近くには、かなり住宅も侵攻していて、イメージとしては市貝町の赤羽城のようだ。
 そのような立地条件であるため、近代の改変が大きいことは否めない。
               



  遺構のメインは、大宮神社の正面地と民家内に、土塁と空堀が残っている。


  






 


【解説】

             

 竹の子取りに来ていた写真のご婦人のお許しを得て、中を見学させてもらう。


 下の写真をご覧いただこう。

 現状では、明らかに民家側(写真右手)より、大宮神社側(写真左手)の方が高くなっている。

 このことから、大宮神社境内側が主郭方面かなのか?
 しかし、境内には(破壊されて?)何も遺構が存在しない。

 よく観察すると、民家側(写真右手)の曲輪内にも土塁が一筋残っている。
 この土塁上に登れば、神社側(写真左手)の高さは一致する。
 ひょっとすると、曲輪際ぎりぎりに建てられた民家建築の造成で、土塁が払われた可能性もある。

 
              


 
  堀と土塁は民家の周りを『く』の字に回って終わってしまう。



     
    ◆マウスを乗せよう・・・写真がひどいが、こんな感じで土塁、堀が回る
    



 他にも何かないかと探し回ったところ、畑の中にL字型の大きな土塁の残欠を見つけた。
 農作業中のおじさんに見学を申し入れ、土塁に登らせていただいた。


 高さが4mほど有り、なかなかしっかりしたものである。
 当城で最も高い土塁だ。


            ◆L字土塁



 ついでにお話を伺うことができた。



  
おじさん;『土塁の前の水が流れている側溝は、昔3倍くらいの広さの堀だったんだから。
           ほら、あそこに黄色い家がみえっぺ
           昔〜ぃ、この土塁と堀は、ず〜っと、あそこまで続いていたんだがね





 
その黄色い家が、しこたま遠くに見える。
 この城の範囲が、非常に大きいことを示す証言だ。




  私 :「あの〜ぉ、ここの字名は何て言うんですか?」
  おじさん:『ここかぁ? ここは、おめぇ〜
字”北城”だぁ』



 字北城???
 じゃあ、主郭はここのさらに南?

            
えーっつ???うそぉぉ

 
  ますます復元不可能。

 とりあえず、このおじさんにも、ウロウロする事をお断りして畑の中を観察させていただくことにした。
        

  




 さらに畑の中を歩いていると、一見、塚のような高まりが見える。
 おじさんの話によると、この高まりも土塁の一部だそうである。

 ◆一見、塚のような土塁
             


   ◆上には、小さな祠が鎮座する。



 
 管理人は神社の東側へ。
 すると同じく水の流れる側溝に、土塁状の高まりが残る。

 ここも城の一部なのか・・・?


 側溝に隣接する土塁は、この城では遺構と思って間違いなさそうだ。

 



 その他、普賢院境内中にも先の土塁がある。
 ただ、流石にこれは近代の土寄せのようである。

 この城の見学にはくれぐれも、遺構の見極めと、地元の方への配慮が必要である。

 他にもモット遺構があるかもしれない。

        

                   
(大宮城コンプリート)



『小山西城(仮称)』位置(電子国土へのリンク)  

 地籍図・航空写真にくっきりと    2013/07/12
 
 今年から始めた栃木市の調査。
 地租改正時に作られた、旧大平町の地引絵図を調査していたところ、
 旧瑞穂村北武井のなかに

                    「
西城」の字名が


 他にも”西古城”なる字名も隣接する。
 こりゃ、城であること間違いなし!

  

 早速、地引絵図の現在地を確認。



 ところが・・・・・

    
                    「この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。

              



 耕地整理のため、
   
 
          現在は全く跡形(あとかた)もない

 しかし、地籍のトレースがこれ。
 間違いなく、城の存在を示している。


 ”堀は水田になりやすい。土塁や曲輪は高地になるため、畑になりやすい。”
 このセオリーに基づいて描いたのが下図である。



 当然のことながら、@が主郭であり、Aがそれを囲む外郭。

 Aには横矢を意識した塁線の折れがはっきりと確認できる。
 @の虎口は枡形であったと想像できる。
 地籍には土塁線を思わせるものも現れている。

 いずれにしろ、残っていれば結構な城郭なのではないか?


                 

                  図は左が北になります




             








古い航空写真にも、バッチリその勇姿が

見て取れる。





もったいないなぁ。


















方位は左が北


■ 国土地理院航空写真













 さて、もう少し全体的な位置を俯瞰してみると、
 この小山西城は 小山城と栃木城のほぼ中間地点に当たる。


 これは、一体何を意味するものなのか・・・・・?


                

                         「この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。」



 実は、まだ何も調べてないので、全然わかってましぇん。(^_^;)



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