2019




佐野市
 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします 
@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
   この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
   (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。  
B図は断りのない場合、上面が北を示す。
 パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。 

赤見城sk 大網山城sk 『屋形山城』 唐沢山城
浅利城sk 須花城sk 正光寺城sk 要谷山城sk
蓬山城sk 蔵田城sk 鰻山城sk 阿曾沼城sk
佐野城sk

赤見城sk位置マピオンリンク

 
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【解説】
破壊が進み、曲輪間のつながりがまったくわからない
残念な城である。







大網山城sk位置マピオンリンク→間違ってたら御免


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【解説】
唐沢山城の対面、非常に良い残存状況である。
位置的に、唐沢山城に付随した施設であったと考えられる。








『屋形山城』 電子国土・位置へのリンク 


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【解説】
屋形山城は現在ゴルフ場となり、壊滅している。
周辺には、上記のように堀の内、馬場などの城郭関連地名が残るが、
屋形山そのものの遺構を匂わせる地籍は検出できない。
図は明治時代の地籍図を基に、管理人が編集したものである。








唐沢山城  電子国土・位置へのリンク 

唐沢山に関する管理人の論考。
2004年・全国中世城郭セミナー報告資料です。
◆HP上の公開は中止しました。◆

唐沢山城の遺構の再検討
購読ご希望の方は管理人までご連絡ください
  私の唐沢山城の調査結果です!!

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【解説】
1.4km四方の巨大城郭。
主郭近辺の豊臣政権によって築かれたとされる、高石垣はあまりにも有名。

■主郭付近・・・・石垣は神社創設時の明治の積みなおしもあり、築城当時のものか
注意が必要である。
                                            ◆主郭高石垣・
 
   ◆2の丸下縦堀・
 



■最北西の曲輪・・・・縦堀の多様で、谷内で終結する。この姿は越後上杉氏の
城と近似している。また、この郭内にも随所に石垣が見られるが、主郭のものとは
明らかに異なるものである。  
  
     ◆郭内石垣・
 

 



■主郭北東に続く尾根・・・・・主郭北東に続く尾根上には、規格化された曲輪配置の
郭が存在する。横矢、縦堀、土橋の組み合わせが見事である。
後北条の築城パターンと酷似する。





■2008年8月の写真

北関東自動車道が完成されつつある。

唐沢山城の山麓の縦堀は、トンネルとなり無残にも無くなった。

確かに便利にはなるのだろうが、なんとかならなかったものか・・・・・・・・。

    (※左=左 写真は藪猫様提供)


 唐沢山城城門 2013/01/26 2012〜13第11弾

唐沢山城の城門が、佐野市吉水町の慶安寺にあると聞いた。
寺は榊神社の隣にある。位置マピオンリンク

                


早速、出かけてみたところ、ちいさな薬医門が目に付いた。
これが、城門なのだろう。


 

                                  

 寺には、住職の姿も見えず、鐘つき堂の鐘も取り払われていた。

                  

 正直言うと、この門が唐沢山城の物というのは、感覚的に疑わしい。

 ただ、いいじゃない、それで。
 そのほうが、ロマンがあっていい。

                










浅利城sk閑馬位置マピオンリンク

→北
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【解説】
一部に石垣が残る。
尾根上に枡形虎口が残る










須花城sk・下彦間マピオンリンク


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【解説】
長尾氏の城か?
テクニカルでおもしろい。








正光寺城sk・下彦間位置マピオンリンク


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【解説】
正光寺の裏の山林にある。
わずかだか、横矢がかかる虎口が残る。

※2016年5月の状況・・・堀


主郭土塁










要谷山城sk・飛駒 電子国土・位置へのリンク 


↑山上の遺構 copyright.2005 masaki 

↑山麓の居館
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【解説】


現在は根小屋公園となり整備が進む。

ところどころに、石垣が設けられている。


















蓬山城sk
・作原 電子国土・位置へのリンク 

  
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【解説】
堀、削平も甘く、未発達な縄張りである事を否めない。
立地は山深くなる直前に築かれているため、砦的な役割をしていたのか?





蔵田城sk 電子国土・位置へのリンク ⇒位置がはっきりわからなくなってしまったが、この辺だったような・・・


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【解説】
田沼町史に記されている城の位置は誤りである。
おかげで、エライ目にあった。
もっと、標高の高い地点にあり、尾根筋を堀切で分断した
城である。
主郭東の腰曲輪に破壊されたような跡があり、ブッシュもひどく
判然としない。
城の北峰続きに図の右下に記したような、大きな切通しが残る。
これを警護したものか?











鰻山城sk
難有り(1992)位置(マピオンへのリンク)


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【解説】
ちょっと、計測がずれてしまっている。
難ありの図面だが、あえて掲載した。








阿曾沼城sk 電子国土・位置へのリンク 


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【解説】
佐野のプレミアムアウトレットの帰りに立ち寄った。
阿曾沼城は、現在浅沼八幡宮東面に堀一条を残す。
行ってみるとわかるが、この一条の堀が、町の人たちに、大変守られている。

阿曾沼転じて、今の浅沼町となったのであろう。
佐野氏の旧臣の城であったという。








佐野城sk
位置(マピオンへのリンク)

佐野城【2010/06/05】別に忘れてたわけじゃないのだが・・・・


今日は珍しく暇な時間ができた。

こんな時は、どこかに行きたいが、山の城は季節的にもう無理。
葉っぱと虫にやられてしまう。
でも、最近城に全然行けなくて、悶々としていた。


           「こういうときは、近世城郭なんだけどなぁ〜」

少し考えてみた。。。。


          
  そうだ!

意外にも、何度も行っているくせに、図面をちゃんと書いてない城があった。

     
それが、佐野城。

                  


【解説】

佐野城は、JR佐野駅前にある。
初めてこの城に来たのはいつの事であろう?
確か研究会の人と、泊まりで見に来た記憶がある。

              でも、そのときの図面が、見当たらないのである。
    ◆佐野城入口


  佐野城は、小田原の役で佐野(北条)氏忠が唐沢山城から退いた後、
  佐野信吉が唐沢山城から移城するために整備された城である。
  信吉は、上方の出身で豊臣色の強い武将だ。
  慶長12年(1607)頃、佐野城に移ってきたとされている。




     近年、佐野城は大掛かりな発掘調査が実施された。
     本丸周辺は、大規模な石垣造りの城であり、破壊も激しく行われた事が証明されている。
     現在、これらの成果の一部が城山記念館に展示されている。

◆城山記念館


発掘からは、多量の瓦が出土し、桐の紋瓦から豊臣の影響下にあったことも証明されている。







◆発掘された瓦

 
 
    

    ◆現地案内板より
    


◆北出丸堀切
 ここには、瓦の破片が多く見られる




    










◆現地案内板より


発掘写真。(下図エリア)
井戸に降りる虎口が見つかった。
石畳も見られる。


現在は埋められているが、
虎口の雰囲気を出すために
最上段の石のみ並べられている。


      






◆現地案内板より

他にも石がたくさん見つかり、
かつての佐野城本丸は
総石垣造りであったようだ。

















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