2019
佐野市 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
赤見城sk | 大網山城sk | 『屋形山城』 | 唐沢山城 |
浅利城sk | 須花城sk | 正光寺城sk | 要谷山城sk |
蓬山城sk | 蔵田城sk | 鰻山城sk | 阿曾沼城sk |
佐野城sk |
copyright.2005 masaki |
【解説】 破壊が進み、曲輪間のつながりがまったくわからない 残念な城である。 |
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【解説】 唐沢山城の対面、非常に良い残存状況である。 位置的に、唐沢山城に付随した施設であったと考えられる。 |
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【解説】 屋形山城は現在ゴルフ場となり、壊滅している。 周辺には、上記のように堀の内、馬場などの城郭関連地名が残るが、 屋形山そのものの遺構を匂わせる地籍は検出できない。 図は明治時代の地籍図を基に、管理人が編集したものである。 |
唐沢山城城門 2013/01/26 2012〜13第11弾 |
唐沢山城の城門が、佐野市吉水町の慶安寺にあると聞いた。 寺は榊神社の隣にある。位置マピオンリンク 早速、出かけてみたところ、ちいさな薬医門が目に付いた。 これが、城門なのだろう。 寺には、住職の姿も見えず、鐘つき堂の鐘も取り払われていた。 正直言うと、この門が唐沢山城の物というのは、感覚的に疑わしい。 ただ、いいじゃない、それで。 そのほうが、ロマンがあっていい。 |
→北 copyright.2005 masaki |
【解説】 一部に石垣が残る。 尾根上に枡形虎口が残る |
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【解説】 長尾氏の城か? テクニカルでおもしろい。 |
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【解説】 正光寺の裏の山林にある。 わずかだか、横矢がかかる虎口が残る。 ※2016年5月の状況・・・堀 主郭土塁 |
↑山上の遺構 copyright.2005 masaki |
↑山麓の居館 copyright.2005 masaki |
【解説】 現在は根小屋公園となり整備が進む。 ところどころに、石垣が設けられている。 |
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【解説】 堀、削平も甘く、未発達な縄張りである事を否めない。 立地は山深くなる直前に築かれているため、砦的な役割をしていたのか? |
蔵田城sk 電子国土・位置へのリンク ⇒位置がはっきりわからなくなってしまったが、この辺だったような・・・
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【解説】 田沼町史に記されている城の位置は誤りである。 おかげで、エライ目にあった。 もっと、標高の高い地点にあり、尾根筋を堀切で分断した 城である。 主郭東の腰曲輪に破壊されたような跡があり、ブッシュもひどく 判然としない。 城の北峰続きに図の右下に記したような、大きな切通しが残る。 これを警護したものか? |
鰻山城sk難有り(1992)位置(マピオンへのリンク)
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【解説】 ちょっと、計測がずれてしまっている。 難ありの図面だが、あえて掲載した。 |
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【解説】 佐野のプレミアムアウトレットの帰りに立ち寄った。 阿曾沼城は、現在浅沼八幡宮東面に堀一条を残す。 行ってみるとわかるが、この一条の堀が、町の人たちに、大変守られている。 阿曾沼転じて、今の浅沼町となったのであろう。 佐野氏の旧臣の城であったという。 |
佐野城【2010/06/05】別に忘れてたわけじゃないのだが・・・・ |
今日は珍しく暇な時間ができた。 こんな時は、どこかに行きたいが、山の城は季節的にもう無理。 葉っぱと虫にやられてしまう。 でも、最近城に全然行けなくて、悶々としていた。 「こういうときは、近世城郭なんだけどなぁ〜」 少し考えてみた。。。。 そうだ! 意外にも、何度も行っているくせに、図面をちゃんと書いてない城があった。 それが、佐野城。 位 |
【解説】 佐野城は、JR佐野駅前にある。 初めてこの城に来たのはいつの事であろう? 確か研究会の人と、泊まりで見に来た記憶がある。 でも、そのときの図面が、見当たらないのである。 ◆佐野城入口 佐野城は、小田原の役で佐野(北条)氏忠が唐沢山城から退いた後、 佐野信吉が唐沢山城から移城するために整備された城である。 信吉は、上方の出身で豊臣色の強い武将だ。 慶長12年(1607)頃、佐野城に移ってきたとされている。 近年、佐野城は大掛かりな発掘調査が実施された。 本丸周辺は、大規模な石垣造りの城であり、破壊も激しく行われた事が証明されている。 現在、これらの成果の一部が城山記念館に展示されている。 ◆城山記念館 発掘からは、多量の瓦が出土し、桐の紋瓦から豊臣の影響下にあったことも証明されている。 ◆発掘された瓦 |
◆現地案内板より ◆北出丸堀切 ここには、瓦の破片が多く見られる ◆現地案内板より 発掘写真。(下図エリア) 井戸に降りる虎口が見つかった。 石畳も見られる。 現在は埋められているが、 虎口の雰囲気を出すために 最上段の石のみ並べられている。 ◆現地案内板より 他にも石がたくさん見つかり、 かつての佐野城本丸は 総石垣造りであったようだ。 |