日光市枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
柄倉城? | 小倉城sk | 大沢御殿sk | 小山城sk | 高徳城sk |
【解説】 正体不明のこの城は、『栃木県の中世城館跡』ではすでに消滅しているという。 地形図をのぞくと、日光江戸村の北に『城の内』という字名が見れるので、城があった確率はかなり高い。 まず、場所として怪しそうなのが、下記写真・日光江戸村内の小さな丘。 現在、丘は園内の施設となっている。 登ってみればれば、頂上まで改変され、見る影もない。(チェック部下側@) 聞いたところによると、この丘は、もともと産廃物の山だった言う話もある。 確かに昭和51年の航空写真では、造成された山容が写っている。 ここは、違うな・・・。 あと、気になるのは、江戸村西背後の山である。 しかし江戸村から望むと、かなりの急峻な断崖絶壁の山で、取り付く島もなく調査は断念。(?B) あとは城の内を望む小丘。(チェック部上側A) 登ってみれば、かなりの痩せ尾根で、加工の跡も無い。 頂上には小さな祠がある。 もちろん、城の可能性は低い。 結局、現段階では場所の特定はできない。 本当に現存しないのかもしれない。 ◆国土地理院1/25000『鬼怒川温泉』 |
◆@江戸村内部の丘 ◆B Aから望むBの山。 スゴい急峻だ ◆A小丘の頂上 遺構はない 位置マピオンへのリンク ◆Aから望む@と江戸村 |
↓山上の遺構は明瞭に残る。 このエリアの遺構は城のものと考えられるが↑ はっきりしない。 おそらく前衛エリアであろう |
【写真】 登城口は整備が進み、立派なハイキングコースになっている。 これがハイキングコース案内。 ここから登りはじめ。 しばらくすると、この道標が。 伐採した杉で綺麗な階段を作っている。 何年もつかな? 写真はくりや氏。 山頂の三角点。 立派な看板もできてる。 物見のための曲輪のようで、傾斜面になっている。 写真手前から向こう側に下っている。 主郭馬出し? 主郭上部から見下す。 単純に土が流れたようにも見える。 この馬出し状の東の堀 馬出し状の西の堀 主郭と物見の曲輪の仕切る堀 主郭東側面 物見の曲輪の一段下の曲輪。縦堀から見上げる 上記曲輪の登城口。坂虎口状になっているが、後世の改変か? 峰続きで八方城にもやってきた。ここは鹿沼市になる。 八方城の看板 主郭内部 坂虎口 こちらは、鹿沼市で紹介したいと思う。 |
【解説-1】 標高390.6mの高所に、小倉城は存在する。 日光山勢力の城と言うことで、あまり期待していなかったのだが、それがなかなかどうして。。 小倉城は日光勢力・桜本坊法印昌安が築いたとされているが確証はないそうである。 "日光勢力"というと、個人的には僧集団を連想してしまうので、 ”築城技術は大したことないのでは?” と結論付けていた。 完全”偏見である。” しかし、遺構は思っていた以上に戦闘的である。 もともと桜本坊は後北条氏と連携(間接的?)を組んでいた時があるそうだが 雰囲気的に 「この城は後北条氏の改修である」 という所までは、ちょっと踏み込めそうもない。 さて、 城は、居住(駐屯)を目的とした「主郭」と、 物見を主として使われていた「物見の主郭(管理人呼称)」に大きく分かれる。 今で言う、作業場と事務所の関係である。 城は大きく南方・北方(図の左右)の峰続きを、敵の侵入ルートとして意識しているようだ。 特に南の主郭下は、かなりの急峻な傾斜地にも関らず、縦堀や横堀を配して、厳重である。 これは、南方からの侵入を極度に嫌う、築城者の意図を感じる部分である。 まず、 「あ」の尾根続きは、 城への”進入”または”侵入”方向である事は、疑いもない。 縦堀@Aは、この「あ」の尾根が1番狭まった地点に配されている。 これは「あ」の尾根を登ってきた侵入者が、 縦堀@Aの位置で、山腹に回り込むのを避けるためだ。 栃木の城のパターンとしては、 縦堀@Aの間を ”城道(登城ルート)” が走る例が多い。 (※鹿沼市 大塚城、栃木市 不魔城など) しかしながら、当城は縦堀@A間の傾斜はきつく、 現状でも、つづら折れの道等は見あたらない。 (※整備されたハイキング道はのぞく) この縦堀@Aの目的が、”敵の横方向への分散を避けるためだけに構築された” とするならば、 次に目に入ってくるのが「い」の狭い曲輪(道?)である。 「い」の曲輪は、主郭直下の「あ」尾根から「う」尾根まで結ぶように残存している。 かつて縦堀@Aの間に、主郭までの城道が、もしあったとしたならば、 現在「い」の細い道状の曲輪が残り、縦堀@Aの間の道が見当たらないのは何故だろう? それは、 ”昔から@Aの間に道はなかった” と考える事が、最も無理がない。 そこで管理人は、 「あ」の尾根が狭くなり縦堀@Aで挟まれた時点で、 城道は「い」に沿って、西側(図の上方)に向った。 と考える。 道は縦堀Aを渡り、「う」の尾根に取り付く。 「う」の尾根は、比較的緩やかで、登山道にはもってこいだ。 主郭下に「ルート?」と書いたところには、現在も登山道が残っている。 これを城本来のルートとするならば、 土塁を伴う曲輪 「え」 は、ルートを監視させるために築かれた形にもなる。 個人的には納得いくルートの完成だ。 ◆広い土橋・・画面にカーソルを!! さて、 主郭下には「馬出し?」と書いた、小スペースが存在する。 ”馬出し”は本来、敵の侵入速度を下げる効果も持つのであるが、ここの土橋は幅が大きく広い。 管理人は当初、この土橋は、主郭の土が流れてできた近代の物、と思っていた。 しかし、冒頭に述べたように、この主郭が、 ”居住(兵士の駐屯場所)を目的とした場所” と考えるならば、物見の兵を除き、城兵の多くはこの曲輪に居たと考えられる。 となると、有事の際は多くの城兵を城の各部所に一気に配す必要がある。 この時、主郭から城兵が飛び出す出口が狭いのは非効率である。 そこで管理人は、こう考えた。 主郭の南に接する通用口(土橋)が広く、土塁を左右に振り分けているのは、 城兵を東西(図の上下)に、 すばやく戦闘配置につけさせるための配慮なのでは? つまり、この「馬出し?」は 敵側に向けた施設ではなく、 ”城内方にむけた便利構造”だと思うのである。 もちろん、堀という付加価値をつけ、防御施設としても考えていたとは思うが、 ウエイトは城内に向けていたものと考えたのである。 主目的が、敵の攻撃に向けたもので無いのなら、 縦堀@Aの間から、城道を直接「馬出し?」まで通す必要はない。(実際にも現在もない。) また、主郭の北側が土塁で囲まれ、城内兵がすぐ主郭外へ移動できないようになっている事も、 この仮説のバックグラウンドになっている。 小倉城には、もう一つ興味深い遺構がある。 それは、赤丸で囲んだ縦堀のオフセットである。 偶然堀切と縦堀をずらしたわけではない。 なぜなら、その反対側の縦堀には堀切とのズレがないからだ。 (堀@と文字が書いてある部分) 赤丸の側だけズラしたわけ。。。。 そこには築城者の設計の意思が入っているはずだ。 では、 その思想とは何だろう??? 改めて、城全体を俯瞰してみよう。 この城の弱点はもちろん尾根からの敵の侵入だ 矢印がこの城の弱点領域。 つまり尾根筋からの侵入だ。 特に南方向は主郭でありながら、弱点が集中している。 下記で周辺地形を今一度見て見よう。 位置マピオンへのリンク 尾根筋といっても、西側は、山に囲まれ軽備でいいだろう。 それに反して、山の南方向や東方向は、 平野部と接している面であり、麓から敵に取り付きやすい。 このため、敵がこちらから攻めてくる可能性は高く、 瞬時に配置につく必要がある。 物見の曲輪で敵を確認したら あとは敵を迎え撃つ事に力を注がなければいけない。 そのためには兵を主郭に円滑に送りこむ必要があった。 だから、このように堀をオフセットし、 物見の城内兵を、主郭下の腰曲輪に送り込み易くする構造としたのではなかろうか。 そう考えると、何故主郭へ入れずに、わざわざ腰曲輪に人を送り込む構造をとったのだろう? ・・・そうなると 物見方面から直接主郭へ入れる通路は無かった可能性がある。 つまり、主郭北の土塁は、今でこそ土塁に切れ目があり、虎口のように見えるが、 かつては完全土塁囲みで、”虎口は無かった”とも推察できるが、いかがなものであろうか? ◆物見からの兵の移動を考え、堀をオフセットしたのであろう (小倉城完) |
【解説】 江戸時代、日光参拝時の立ち寄り施設だったとされるが、元は塩谷氏・被官の大沢氏の中世居館であったという。 西側にある土塁の食い違いは、虎口の跡のようだ。 北半分は水田と化し、破壊されている。 ◆大沢御殿の土塁 あまり、規模の大きいものではない。 ◆西にある食い違い虎口? |
copyright2007.masaki |
◆第1回 試しに行って見たところ・・・。 |
copyright2009.masaki ◆ウエブマッピングシステム、国土地理院地形図より 今回は山の左半分の調査ということになる |
【解説】 たまの休日。 午前中しか時間が無かったため、これだけしか見れなかった・・・ でも、これだけ見ただけで、やばくないですか、この城! 小山城は虎口が明確な、ラインの城なのであった。 描けていないが、堀が全山を巡っているのだ! これは、宇都宮氏か! さて、取り急ぎ、撮れた写真を掲載しておきますか。。 @かなり急峻である A主郭を断ち切るメインの堀切 B両壁は岩盤でもともとの地形であろう C両袖に横矢効果を持っていたようだ D山を巡る長い空堀 続きは第二回で!乞うご期待! |
◆第2回 山頂付近をさらに探索。 | |
すごい。 この手の城は栃木県にはザラには無い。 栃木県屈指の城と言っても過言ではないだろう。 ただただ、驚かされるのみである。 「谷の中は守ります。それ以外は防ぎます」・・・と、言う感じ。 |
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【解説】 @ さて、この城の最高峰は当然西側の細長い部分。 標高から言うと、所謂主郭になると考えられる。 A ところがその南、Aの曲輪は堀が全周を回っている。 構造面からすると、こちらのほうが厳重で主郭にふさわしい。 ところが、ところが、この曲輪内は傾斜しており、とても建物などは建てられそうも無い。 B そうなると、東のB曲輪はスペースがある。 また、この曲輪も北以外は全て堀に囲まれていたと考える。 C それを言ってしまうと、標高は落ちるがCも然りである。 つまり、どの曲輪をとっても優位性、上下関係が微妙な感じがするのである。 さて、城の南面には、腰曲輪が2段、前面に配置されているのが見て取れる。 一部は現在も空堀と認められるが、 往時は全て空堀であったと思われる。 堀の深かったところのみ、現代に『空堀』として確認できるのだろう。 |
◆小山城彩色図・黒い部分は岩盤copyright2009masaki |
これらから、この城の防御の方向が見えてきた。 そうである! 基本的に南から攻めてくる敵を意識した城である。 先の2段の堀がこれを証明しているように思える。 つまりこれら@ABCは、攻めてくる敵の方向や量によって、 それぞれが戦闘の中核になりうるよう設計されていると、筆者は考えた。 ・・・・しかし・・ |
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◆第3回 補足調査 | |
2009年2月14日。バレンタインデー。 管理人は、再び小山城を訪れた。 3回目だ! 今回は尾根で挟まれた谷の中Dの調査だ。 D 図のDは、当城の水の手であるようで、沢を土塁で囲み堰き止めているようである。 また、その北には水の手を守るかのように浅い空堀が残る。 ◆水の手の空堀 この空堀をたどると、この山が巨大な岩石によって形成されていることが良く分かる。 垂直に立ちはだかる姿は圧巻である。 ここで、小山城がどうして北、西面に空堀を作ってないかがわかった。 この、岩壁で『堀はいらない』のである。 ”いらない”じゃなくて、作りたくても作れない。、、、というのが本音であろう。 城を山麓から振り返って見た時に、初めて分かった。 上から見るのと、下から眺めるのでは、印象が全く違う。 大違いである。 先に筆者は、この城は南側を意識した城と言ったが この城は全方位に意識が回っている と言ったほうが良いかもしれない。 ◆水の手空堀横の巨岩 この空堀と巨岩部分から下(北方向)は、なだらかな傾斜地となり県道に続いている。 谷の開口方向が根古谷方向だとしたら、こちら方面になるのだが、、、、? でも、この緩傾斜では、ここが根古谷だ!というには状況がが乏し過ぎる。 ◆巨岩のから城下方向を望む(緩傾斜である) 管理人は、小山城の主要部以外の小ピーク(地形図に現れている微高地)も探索してみた。 下記の”おまけ”の地図にも載っている、当城東の小ピークやその周辺の傾斜のなだらかな地形の調査だ。 しかし、ここには一切城に結びつく遺構は発見できなかった。 では小山城の根古谷は一体どこだったのだろう? それともそれ自体無い、臨時色の強い城だったのだろうか・・・・・・・???? (小山城・完) |
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恥ずかしながらあまり撮っていないのだが、他の写真をいくつか紹介しよう。 ◆虎口・坂虎口だが、縦堀状 ◆谷の中より、上部空堀を望む。 |
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◆わかりにくいので城へのアプローチ◆ この城へはアプローチが非常に難しい。 最終的にわかったルートを紹介しておこう。 ◆国土地理院 下野大沢より @まず、城の南山麓のこの風景を探してみよう。 電信柱の奥には幼稚園の白い建物が見える 道は、この幼稚園を目指すように作られている A道に入ったら田んぼの中をずんずん進む。 途中に橋がある。 幼稚園が近づいてきた。 B橋を渡ると、小山城の山裾の林が見えてくる。 この林にぽっかり口をあけている場所がある。 写真のほぼ中央。 ここが登城口。 山頂の天狗様の祠まで一直線だ。 |
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◆手記 嫁は仕事。 息子はクラブの練習。 娘はサッカーの練習。 一人の時間が今日はできそうだ。 娘の練習の迎え時間まで4時間あった。 よし!小山城に行って続きを書こう! と、ニッチな時間の有効活用。 車での往復の時間を入れて、3時間は見学を楽しめる。 しかし、第1回の残は意外に多かった。 大慌てで、大急ぎでの調査。 汗だくとなった。 今回の調査で、久々に山の上で同じ趣味の方?を見かけた。 結構ご年配のご夫婦?で、だんな様が先頭し、奥様が後ろから付いて写真を撮る。 このような形の城?見学。 縄張図は書いていないようだった。 これがまた、果敢にも急斜面を上り下りされている。 「こんにちわ!」 とこちらから声を掛けたが、無反応。 当方も時間が押し迫っている為、そんな事に構っていられず作業を続けてしまった。 人気の無い、こんな山の中で初めて同業者?と出合った。 当城は天狗様も山頂に奉られており、神道方面の方だったかもしれないが。。。。 |
日光市・高徳城。 その存在は、「栃木県の中世城館跡」や「日本城郭大系4」で知られている。 しかし、その所在地は極めて不明確である。 城郭大系では平地の城館として、また栃木県の中世城館跡では、山城として解説されている。 |
高徳城は、一体どこにあるのか? これが今回の最大の課題であった。 ”日本城郭体系4”によれば、平地部に居館があり 幕末に宇都宮藩戸田氏が当地に高徳藩を立ち上げ、その陣屋としたとある。 しかし、付近は住宅地になっているため、この平地の遺構は期待できそうもない。 ◆山全容 そこで期待が残るのは山上である。 「栃木県の中世城館跡」によれば、高徳城は、宇都宮氏家臣、高徳仙左衛門が、築いたとある。 しかし解説には山の写真があるのみで、遺構の詳細もなく、どこの山なのかもさっぱり分からない。 地形図を広げる。 高徳の町の東側には、広い山塊が広がっている。 この山で一番怪しそうな場所というと、 標高490mの三角点、「高徳寺」の裏山が最も怪しそうだ。 「また、はずしちゃうかな?」と不安に思うも、早速調査に向かった。 午前8時前、高徳寺到着。 朝早すぎたせいもあって、寺には人影も無い。 ここで、もしかしたら必要な情報が得られるかも?! と、思っていたが、日曜の朝の忙しい時間。 いくらなんでも迷惑だろうと、聞き取りはあきらめた。 ◆高徳城までの尾根 そこで、高徳寺の駐車場に車を置かせて頂き、 寺裏の墓地から藪に突入した。 (結論から言ってしまうと、高徳城にたどり着ける明確な山道はない。) 私は最初に取り付いた山腹を、とにかくがむしゃらに直登した。 汗がジワッと出た所で、尾根に出た。 杉山であるので、間引きした倒木に足を少し取られたが、 その他は低い灌木であり、歩くのには苦労しない。 しばらくすると、 「あった!堀切だ」 ◆最初に見つけた堀切!! 今日は勘が働く。 いきなりの発見である。 かなり埋まっているが、この遺構の出現で、この山が「高徳城」である事を90%確信した。 さて、まだここは、山の中腹。 さらに山頂を目指し足を進める。 しかし、ここから先はだらだらとした尾根が続く。 初のピークに着いたものの、曲輪の加工が甘い。 私はここから、 峰続きの標高 490mの三角点を目指し、足を進める。 すると、また大きな堀切が突如現れる! ”高徳城”が決定的なものになった。 ◆この堀切で100%決定 遺構だ!。間違いない。・・・発見だ。 覚めやらぬ興奮を、写真に収めることで押さえ、 さらに三角点のピークを目指すことにした。 ここからはなだらかなUPダウンがしばらく続く。 2つほどののピークを越えると490mの三角点に到着した。 結果、堀切から三角点までの間には何も遺構を見つけることはできなかった。 ◆三角点までの尾根を進む ◆三角点標高490m よって高徳城は、最初に発見した堀切から、 2度めに見つけた堀切までが城域だと推定できた。 それを見届けて、私はふたたび堀切まで戻る。 いよいよ縄張り調査開始である! |
私が高徳城を選んだわけ。。 思うのは、人が行って図面が書かれた城は、なんとなく面白くない。 最近ちょこちょこ日光市に出かける機会が多くなったのだが、改めて”栃木県の中世城館跡”を眺めてみる。 合併前 藤原町 の項だ。 <藤原町> 鶴ヶ渕城・・遺構はあるが、ちょと、遠いな。 芹沢城・・・消滅と書いてある。 柄倉城・・・これも何もない 高徳城・・・遺構はよく残っていないが・・・・・と書いてある。 んっつ?高徳城? 「よく残ってない・・」=少しは残ってる、という事か? 他のホームページをいろいろ見てみたが、この城を踏破した人はいない。 この城の所在が分からなくて、悔し涙を流している人もいる。 よし!じゃあ俺が見つけてやろうじゃないか! と、いうことが選定理由である。 結果としては、「少しは残っている」じゃなくて、「とても良く残っている」だった! |
【解説】 ◆彩色図 さて、話を解説に戻そう。 まず主郭であるが、当然山頂である。 加工が甘く、壁はたどれるものの、判然としない。 主郭より南東に伸びる尾根にはいくつかの削平地が残る。 先端部は埋まって小さな曲輪になってしまっているが、堀切であったことが予想される。(緑線で示す) この尾根の末端は直角に切り立つ岩盤で終わっている。 ここまでが、この尾根の城域だろう。 次に、主郭北東の堀切を見てみよう。 ここは、見るからに遮断の堀切である。 堀も深く、両側は大きな縦堀となる。 縦堀の下方から、堀を見あげる。 写真では分かりづらいのであるが、 結構な斜度である。 高徳城を城として確信した堀切。 かなり埋もれている。 ●や緑のラインで示す堀のラインが、 想像できる。 赤矢印は写真方向 中腹の土塁を堀切方向から眺める。 土塁の方向が、下方の堀と推定されるラインと 平行なことから、ここに塀を築き、図の土塁の右手 が城兵のいるエリアだったのかな?と思っている。 この城の大きな遺構の特徴として言えるのが、この部分。 堀切と連動して、斜めに下る横堀であったと考えられる。 この堀は最終的に縦堀と変化し、山麓まで下る。 非常に加工のしっかりした縦堀が 延々と続く 横から縦堀を眺める かなり山麓に近いところjから 縦堀を見上げる。 縦堀下の山麓、高徳寺には、このような5輪塔群が見られる。中世の匂いが漂う場所だ。 |
【考察】 ◆茶臼山 ◆高徳城 ◆小山城 さて、私が訪ねた日光市の城の遺構には共通点がある。 それは、斜面を斜めに下る横堀があることだ。 等高線に平行な横堀ではなく ”斜面を斜めに走る” という所が妙に共通している。 しかもこれだけこれだけ近い地域に。。。。なぜ? 茶臼山は天正15年に宇都宮氏に再興された戦国末期の城。 私には高徳や小山も、このときの改修に何か関連性があるような気がしてならない。 (高徳城完了) |