2019
茂木町 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
茂木城 | 河又城?sk |
◆茂木城全体図 copyright.2005 masaki |
◆茂木城主要部 copyright.2005 masaki |
【解説】 近世まで存続した城。 大規模な土塁と曲輪取りは近世城郭そのものだ。 最北堀切より北の丘陵地帯を城の一部としている解説書もあるが、 管理人としては明瞭に城の遺構と判断できなかったため、 図化していない。 |
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彼岸花の名所 2010,10月 | |
茂木城は、栃木県下でも名高い、彼岸花の名所である。 管見の限りでは、下記が3大名所と言えるだろう 粟野の遊の里 伊王野の簑沢 茂木城の南斜面 茂木城の壁を真っ赤に染めている姿は、まったくもって見事としか言いようがない。 10m以上の高低差の斜面に群生する彼岸花は、茂木城だけである。 壁は真っ赤である。 これでは、この城も攻める敵も、ある意味躊躇するのでは・・・? ここには珍しい黄色の彼岸花も咲いている。 内郭では、堀跡が畑となっている。 この畑を管理するおばちゃんと言葉を交わした。 通りすがりの私たちにおばちゃんは、 ”おみやげ”ということで、枝豆をたくさん渡してくれた。。 10月の”茂木城の枝豆” 感激である。 家で食べたら、めちゃくちゃおいしかった。 堀跡ではキタテハが、羽を休めていた。 |
河又の無名峰は城跡か? 2012〜13年度第6陣 2012/12/16 |
本ホームページ御常連・しぼれさんから、”茂木町・河又の無名峰に曲輪/堀切がある”との情報を頂いた。 「こんばんは。今日地形図の神社マーク探索で藪ピークを歩いてきました。ピークの手前と奥で微妙なダレ気味の段差をいくつか見てきたので、画像の部屋に30枚ほど貼りました・・」
大木須城とセットで早速現地に向かい、管理人の見たものは・・・・・ |
やっぱ、城としか言い様がないのかな・・・ |
河又の村落は、烏山市街から東へ5〜6km東にある。 地形図上で見ると山塊の中に、鼻のような形をした谷戸が見える。 「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第581号)」 鼻の両側の谷を南北にそれぞれ、小木須川・木須川が流れ、鼻の最南端で合流する。 その合流地点は、現在の区分では那須烏山市では無く茂木町となる。 河又城は、川の合流地点、鼻の最南端の山上にある。 ◆目的の山を望む(金蔵院から) 車は、川の際にちょうど良いスペースがある。(地形図参照) ここに留めよう。 未知の城を調査するには、まず情報調査。 山の名前くらい、聞いておかなくちゃね! 早速、地元の方にお話を伺おうと歩き出すが・ ・ ・ (外に出ている人が、) 呼び鈴鳴らして、わざわざ聞くのも 相手にとっちゃ迷惑だしなぁ。 近くにお寺(金蔵院)があるぞ! と訪ねてみたものの・・・・ まったくもって、静かなもの。 ま、仕方ないか! と、山頂を目指すことにした。 ◆麓の神社 山頂を目指すには、駐車場の目の前にある神社に取り付こう。 左写真のような道があるから、すぐわかる。 まず、地形図を見てみよう。 「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。 (承認番号 平24情複、 第581号)」 当初、このお話を頂いた時のファーストインプレッション。 ◆標高220山頂mの神社 麓に上の写真の神社があり、”城跡?”の山を隔てて、 標高220m山頂にも、神社が見える。 2つの神社は一直線上に並んでいる事がお分かりになろう。 山自体を御神体とした神社は、全国的にもよく見られるケースだ。 たいていの場合は、 麓に本宮があり、山頂は奥宮と称する神社のパターンだ。 その中に (麓)本宮―(山腹)中宮−(山頂)奥宮 ex 日光二荒山神社など のパターンもある。 よって管理人は当初、 「城跡と言われる山は ”中宮” にあたり、投稿の曲輪に見える段差は、神社のあった跡なのでは?」 と考えていた。 |
【解説】 河又の無名峰には、あきらかに人工的な曲輪が残る。 南北に長い土塁状の曲輪を頂点に、南に3段、北に3段のはっきりした人工の平場が残る。 神社を建てるには、平面が少々狭すぎる。 はたまた、畑跡とするには不便すぎるし、やはり幅が狭すぎる。 植林のため?・・・・まずないだろう。 トヤバ?(鳥などの狩猟施設)・・少し、規模が大きくないか?? また、投稿者の”しぼれ”さんは、最南端に切通し状のV字ゾーンが残るという。 確かに、非常に浅いけれども、南北の尾根を分断する様に溝が残る。 筆者が見る限り、このようなところに切通しを作っても仕方ないと思うし、その痕跡も無い。。 堀切なのかな? それにしても、主要部と少し離れている所がちょっとキナ臭い。。 と、せまられたら 「しっ、し、 城・・・・かな・・・。」 と仕方なく答えてしまうだろう。 そんな感じです。 ・・・・・城跡へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さきほどの神社から、河又城までの道は、まったく見当たらない。 しょうがないので、先端の尾根に取り付き、直登だ。 ◆先端尾根に取り付く しばらく歩くと、なるほど、一つ目の段差が見えてくる。 曲輪の幅は恐ろしく狭く、最大で7mほどである。 神社の跡としては、山頂を中心に南北に平場があるのが理解に苦しむ。 南北に走る尾根上には、堀切跡が残るが、 かなり、埋まってしまっている。 ここが城跡だとすると、曲輪配置、曲輪数、堀切の存在から、 どちらかというと南方向からの侵入を警戒していると思われる。 となると、近隣の大木須城と同じで、やはり佐竹の侵攻のときの備えになるのであろうか???? 視点を変えて、河又城の位置について考えてみよう。 城跡は山の中腹に位置する。 わざわざ中腹に遺構を残すのには、それなりの意味があろう。 当然、山頂の神社の場所の方が、視覚的には有利なはずだ。 山頂の神社の場所と、この河又城の場所での違いは何か? マトリクスを作り、山頂神社と河又城の立地を比較し、河又城立地の目的を探ってみよう。 条件に有利な方を「勝者」としてみた。 誘導尋問感が否めないものの、 「城」と言う意味では、河又城の立地条件の方が優位に思える。 決定的なのは、山頂神社は、南に大きく尾根が開いてしまっており、敵の侵入を誘発し、城の場所として圧倒的に不利になっている。 「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第581号)」 ほかにも、マトリクスから言えることとして、以下をあげたい。 まず、河又城の位置が谷D・Eに対し、大いに威圧感を持っていることである。 この方面の監視という意味合いを強く感じる。 この谷は南下すると那珂川に通じ、御前山方面の佐竹勢力の方へ通じている。・・・・@ もう一つ注目なのは、河又城の位置が、全く谷C=西方向を警戒していないことにある。 西方向は那須氏勢力の方向である・・・・A 結論として @Aより、河又城は谷D・Eへの視覚的威圧感を意識している事から、佐竹方向からの侵入を警戒して築かれた ということなのだが、いかがであろうか? ちなみに、左図の赤点線も縦走してみたが、 河又無名峰以外、城郭っぽい遺構は皆無であった。 「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第581号)」 (なんとも自信がないが、河又城コンプリート) |