2019





矢板市  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします

@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある

伊佐野城 泉城 大槻城 御前原城 岡城
乙畑城 川崎城

ホームへ




伊佐野城位置(マピオンへのリンク


copyright 2006 masaki
【解説】
伊佐野字堀の内に、持宝院というお寺がある。
寺の山門は古手の六脚門であるが、松が嶺城(INDEX表C番)より移された物という。
少々疑問も残るが・・・

さて、当の伊佐野城は、この持宝院の山門の真向かいにある。
当初、どの資料にも、伊佐野城の場所が特定されておらず、所在不明の城であった。
このため、場所の特定に苦労することが予測されたが。
しかし、伝・松が嶺城山門が城跡に導いてくれたのか、運良く山腹に遺構を発見することができたのである。

現在、内部は畑にて改変されているが、往時より大きくは変化していないことが予測される。
基本的には、ゆるく下る尾根を堀切にて分断し、城外より低くなってしまう主郭内部に盛り土をし、
高さを稼ぐ手法の城である。
主郭虎口は、南側に坂虎口が存在する。

聞き取りによると城跡一帯は”タカエ様”とよばれているそうであるが、
城との関わりについては疑問が残る。

地元の情報によると ”鈴木右京” なるものの城とされているようである。

 
           ◆持宝院前に落ちる縦堀




泉城位置(マピオンへのリンク


   

copyright 2006 masaki
【解説】
東泉の瑞雲寺の南方150m、標高264.6mの微高地を中心に遺構が広がる。

最高部に主郭を置き、北方尾根続きを東西の連続堀切で断ち切る。
堀切は西面のみ、縦堀に変化する。

主郭西斜面からは、二本、縦土塁を伴った縦堀が落ちる。

此の最南方の縦堀と、先ほどの連続堀切の間にある山麓部分を、字として「御屋敷」と呼ぶ。
現在、畑と化しているが、周囲より一段高くなっている。

おそらく、ここが居館部分であり、その両袖を縦堀で防備していた構図が浮かび上がる。

さて、主郭東面は、力が入っていない。

もともと、西面より緩い傾斜地のため、防備が強固になってもいいのだが、
先ほどの連続堀切も、中途半端な形で消えてしまう。

東面全体に、断続的な切岸が存在するが、連続性や関連性が無く、
城の遺構としての判断が難しい部分だ。

当山は椎茸畑として、かなり利用されていたようで、林業用の轍があちこち残り
後世の改変がかなりあると思われる。

築城は天正19年とされる。
 
                ◆主郭を望む                                  ◆主郭堀切


追記・「旧泉城」

【解説】
当泉城と、道路を隔てた南側に続く丘陵は、”旧泉城”と呼ばれているらしい??。
(泉城図面下部の丘陵)

管理人の調査の結果、この山続きに遺構は見られなかった。
しかし泉城と、この丘陵を含む山全体が、内川との山麓をコの字に囲むことから、
この一帯が泉城域であった可能性もあるという。
位置(マピオンへのリンク)

◆通称”旧泉城”・・遺構として認知できない
copyright 2006 masaki





大槻城位置(マピオンへのリンク)


copyright.2005 masaki
【解説】
単郭で2〜3mの堀で囲まれている。
曲輪内は未成形である。





御前原城位置(マピオンへのリンク)


copyright.2005 masaki
【解説】
シャープの工場敷地内にあり、主要部が良く残る。
北側の虎口は、改変、または付け加えられた可能性がある。







岡城位置(マピオンへのリンク)


copyright.2005 masaki
【解説】
遺構は東端のみに残る。
西半分は、畑、工場となり破壊されている







乙畑城位置(マピオンへのリンク)


copyright.2005 masaki
【解説】
熊ノ神社、丘陵東部に遺構がある。大半は耕作され破壊されているようだ。

北の字名『大曲輪』には、城兵の配置を示す古文書が残る。



川崎城位置 (マピオンへリンク)

@【解説】
長大な城域のため、A・B・C部分に分割して解説しよう



【川崎城・堀江山城全体図】
copyright.2005 masaki






←A・新城部分





















←B・主郭部分














←C・大堀切











←D・堀江山城・・・上記@



A・新城部分図

copyright.2005 masaki








←堀切






【解説】A 新城部分
東北道東側、最北部には、大きな空堀が見られる。
東北道を挟んだ、西の丘も新城部分と考えられ、
先ほどの空堀と連動するような空堀跡が見られるが、
後世の改変の疑いも残る。
B・主郭部分図

copyright.2005 masaki





←貯水池跡










【解説】B 主郭部分
主郭周りの堀の規模は大きく、最大で10mを超える。
しかし、縄張りのテクニカルさはあまり感じられない。
上記、谷あいの部分は貯水池跡である。
C・大堀切部分図


copyright.2005 masaki

←川崎城最南端

















←大堀切



【解説】C 大堀切部分
川崎城と堀江山城の間に残る大堀切で、丘を横断する。
川崎城のものなのか、堀江山城のものなのか
区別がつかないことからも、
両城は一体で一つの城となっていたと考えられる。






←堀江山城(@)

A川崎城現地説明会 

2009年12月12日。
ひょんな事から川崎城の現地説明会をする事になり、その資料を作成した。
これは、現地説明会が雨になった場合の室内研修用も合わせた物である。

説明会前日はスゴイ雨で、ぬかるみが心配されたが、
当日はなんとか天気も回復し、40名を越える参加者と現地を歩く事になった。

下記は、川崎城を紹介する良い資料だと思う。
ここでは現地で実際説明した内容を紹介していきたい。

  
中世の城を歩こう!と題しまして
川崎城の説明を始めます。

本日は、お城そのもの。
”縄張”についてお話したいと思います。
この資料は、このように構成されています。
本日回るコースになります。
遊歩道が整備されていますが、足元にはくれぐれも注意してください。

各○の番号が説明ポイントになります。
コース図に示された図は”縄張図”と呼ばれ、
基本、このような表現になっています。

断面図で言うと、
高い側を実線。
低い側を点線。
斜面はケバ線で表し、ケバ線の長さが、斜面の高さを表現します。
そういうケバ図の集合体が縄張図になっています。
実際の主郭堀部分の堀の写真に重ねますと、上部の縁が実線。
空堀の縁が点線で表すようになっています。
崎城は、現矢板市の中心にあります。


この図は、矢板周辺をあらわしたもので、丘陵地帯を網掛けに、平野部を白抜きにしました。
川崎塩谷氏は、白くの右斜めに広がる ”蟹の横ばいのような形” をした領地を所有していたと考えられます。


箒川にそっては、宿敵那須氏が存在していました。
川崎城は、宿敵であった那須氏の方向を警戒し、
また矢板の田園地帯を見渡せるような形の立地である事がわかります。

川崎城だけでは視界の効かない部分については、丘陵上にベルト状に支城を配置しフォローしていました。



田園地帯には、御前原城があります。(※図では誤記で”御前山城”になっています)
お館様がいるような平和的な雰囲気が感じられる城ですが、
実は御前原城は、田園地帯の中央にドンと居座った、那須氏に向っての最前線の城だと考えられます。



那須氏を上方から警戒し、望楼的な役目をしていたのが川崎城。
田園地帯の統治と、いざと言うときは、最前線となって戦う御前原城。



この2つの城がセットになって矢板の領地を中心的に治めていたのは間違い無いと思います。


川崎城は、広義では大きく4つの構成要素から成っていたと考えられます。
カマボコ状の丘陵全体が川崎城だったと考えるのが私の考えです。

@が新城
Aが川崎城本城部。
Bが大堀切
Cが堀江山城です。

この4つが同時期に機能し、川崎城のある台地全体が ”一つの城” といえるのだと思っています。

東北自動車道が通っていなかった頃の写真です。

川崎城の城下は、川崎反町とも言われていますが、私は川崎城の西の谷筋が城下と考えています。(写真では、”川崎城”と示したの下の谷あい)

理由は、ここには城郭に関連した字名が残るのと、那須氏を敵と考えた時に、城の背後に城下があった方が安全だと考えたからです。

また、この古い写真を見ると、川崎城の西下に四角く取り囲まれた居館跡のような地籍も見られます。
矢板市では ”ともなり祭り” が有名ですよね。
この城の築城者は、塩谷朝業(ともなり)と言われています。
ですが、この方は鎌倉時代の人です。

現在残る川崎城の姿は、その後の歴代の城主が改修を重ねたものです。
ですから塩谷朝業時代の物ではありません。

2002年に行われた川崎城の発掘調査でも、遺物は15〜16世紀のものが中心に出てきており、それ以降のものは出てきておりません。

これは、川崎城が所謂戦国時代まで使われ、それ以降は使われなかったと言う事を示すものです。
では、ここからは縄張図に沿って現地を見学してみましょう。
写真のエリアは、赤線で示しました。
【曲輪】
ここは今は平坦地ですが、もとから平坦だったわけではありません。
人力を掛けて、平面にされているのです。
おそらく、居住スペースや城内兵を配置するために、地山を加工したのでしょう。

このように人工的に作られた空間を「曲輪」と呼んでいます。
主郭周りの堀から、主郭を見上げます。
現在遊歩道ができた関係もあって、主郭への城門がどこにあったか見当がつきません。
【矢倉台】
主郭内の土塁で、妙に土塁の幅が広い部分となっています。
ここは、「矢倉台」の可能性があります。
方向を変えてみてみました。
おそらく、その矢倉からは主郭堀を警戒する役目があったと考えます。
主郭の堀は、現在でも相当深いものですが、2002年の発掘調査から、現在の位置からさらに2〜3m下の所まで掘られていた事が分かりました。
堀の底はv字型で、所謂「薬研堀」に成っています。
主郭から所謂2の郭を見下ろしました。
実は2の郭はかつて畠だったようで、ここの土が大量に主郭の堀に捨てられている事が発掘で分かったそうです

ひょっとすると現在この郭は真平らですが、もっと複雑な構造をしていた可能性があります。
【蝸牛城】
その2の郭から主郭堀を眺めました。

この城は別名「蝸牛城」とか「かたつむり城」とか言われますが、この主郭の堀が半月状に回っていることから付けられたのではないでしょうか。
【堀切】
2の郭の横の堀切です。
「堀切」とは、堀の形態を示す言葉で、台地や尾根を断ち切る形で築かれた堀の事を呼んでいます。
堀切は階段で登り降りする事ができます。
その土木量の凄さと、その高さをご自身で実感してみてください・・・・・・

【まとめと感想】


初心者の方も多かったようだが、皆さんと約1時間30分ほど山を歩いた。
分かってもらえたか不安だが、最善を尽くした。
見学会後、本日の講義のまとめ版として、矢板市文化財愛護協会から原稿を頼まれた。
またこのような機会があったら、是非チャレンジしてみたい。

矢板市は、最近文化財の保護に力を入れているようである。
2011年には、現在建設中のバイパス横に ”道の駅” もできる。
ぜひその機会に、川崎城を訪ねる方がもっと増えれば良いと思う。

川崎城からの眺めは本当に素晴らしく、矢板市の人たちが私は本当に羨ましい。
私にとって川崎城は本当に「癒しの場所」なのである。

沢山の人達に、それを感じてもらいたい。
                     2009/12/12



inserted by FC2 system