2019
栃木市8 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
『堤崎城』?sk | 須藤城(写真のみ) |
『堤崎城』?
こんなところに須藤城 2014/09/21 |
バイブル「栃木県の中世城館跡」に、”須藤城”の記載がある。 が、なかなか場所が特定できず、困っていた。 今回、栃木市に委託された城館調査のプロセスの中で、 城の位置が、かつての岩舟町の広報に、記述されていることがわかった。 位置位置(マピオンへのリンク) 須藤城は、静和大字古橋にあったのだ。 しかも、梨を栽培されている「須藤農園」さんの敷地内であり、 お話を伺うと、農園のご主人は、なんと、城主・須藤氏第20代目の当主!!。 なんで、もっと簡単に見つからなかったのかなぁ~! |
【解説】 遺構が”意外に残っているな”というのが須藤城の印象である。 まず、鹿島神社の東には、明瞭な堀が残っている。 これが、その堀跡。 右手がお墓になっている。 少々、小高いため、 矢倉台?に見えなくもない。 右の写真は、堀を正面から見る。 まず、間違いないでしょう。 この堀の流れを、 たどっていくと_______・・ ・・______先ほど、話した須藤農園の敷地に出る。 お断りして、敷地内を見せていただくと、 須藤農園さんのお宅の北側に、堀の跡が残る。 おそらく、ここが主郭なのであろう。 写真は、その堀跡。 ヤブで覆われてしまっているが、 堀であるのがお分かりであろう 周囲を、四角く囲んでいたのが 想像できる。 上の写真の反対側が、右の写真。 こちらも、堀の残欠がお分かりになろう。 さて、敷地内をさらに北に向かうと・・・・・・・ ・・・栃木ではめずらしい、緑泥片岩の板碑がある! キリーク(阿弥陀如来)がクッキリ。 正中元年?とも読める。 正中は、1324-26年の元号。 鎌倉時代だ。 この板碑の前にも、堀が展開する。 それが下の写真であるが、この竹やぶの向こうに回ってみると________ _____________・・・・・ !!!!! ご立派! 切岸の上は、土塁であったようだ。 ・・・ということで、図面は後日かな (一応完了) |