2019




栃木市8
  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。 

『堤崎城』?sk 須藤城(写真のみ)




『堤崎城』?  

 

 堤崎城は何処(いずこ) 【掲示板投稿情報や管理人推定地の調査】

栃木県の城のバイブル『栃木県の中世城館』には、皆川城の支城として『堤崎城』があるという。

本日は、その堤崎城を探しに出かけてみた。

管理人の調査場所を
赤線で以下に示す。

ちなみに 
 のラインは、本ページのお客様、しぼれさん、Sさんから、”城が無さそう”と先行情報を頂いた部分である。

    

 
   

 ①傑苓寺裏山 110m三角点

  
ボケちゃったけど文書

 なんでもこのお寺は、徳川家康の弟が出家して作ったそうである。
 確かに山門に三葉葵がある。
 お寺の方に色々話をお伺いすると、家康からの文書まで見せてくれた。

       


 入山をお断りしてから、傑苓寺裏山に潜入。

 結果、標高110mの三角点まで行ったものの、山が開いてしまっており、
何もなし。

 




 お寺の方の話では、皆川城の出城がこの周辺にあるという事はご存知であった。
 でも、場所はわからないと言う。。

 寺の近くに、地元の歴史をメチャ詳しく知っている長老がいらっしゃるということであるが、
 最近、高齢のため喋れなくなってしまったそうだ。

 その方にお話が伺えたら、ひょっとすると堤崎の場所がわかったかもしれない。。。。

 そう思うと、残念な気持ちになったと同時に、
             このように地元の歴史というのは忘却されていくのか・・・と悲しくなった。





 
②堀切遺構?


 掲示板の情報で、堀切遺構では?という情報。
 
 山に取り付くため、神社から突入。

       




 問題の遺構?は確かに尾根の両側を堀状に削り取り、真ん中が土橋になっている。
 このような”尾根上の削り残し”遺構は、敵の大量移動を抑制し、事例としては過去に筆者も見た記憶がある。
 ただ、守る意識の表れ『壁、切岸』が無いのは、防御性に欠ける遺構である。



     ◆マウス乗せてね!
 

             ■縄張り図にするとこんな感じ


 その上、この現場で理解できないのは、ここ以外に何も遺構が無いことだ。

 この堀の上にピークがあるのだが、加工の跡がない。
 堀の下にも、緩い尾根が続くが、何もない。

 また、この尾根上には、山の伐採の跡も多数ある。
 木を抜いた跡だといえば、その跡にも見える。

 結局、どこを守るのか?という、城としての機能が認められない。

 以上より、
城として決めてが無いと結論づけた。





 
③三角点190.6m地点

 掲示板の情報では、②から③の手前は、尾根上に城の遺構は無いらしい。
 では、この③周辺に城は無いのか??ということで、三角点190.6mを目指した。



 

 車を、大平台カントリー倶楽部の導入路に停めさせていただき、調査開始。
 
 
しかし、何も無し。





 
④廻峠近辺の遺構?


  

 掲示板の情報で、廻峠周辺に、段々の曲輪があるという。
 
 廻峠周辺は、土取り場の跡だろうか?重機で掘り起こされ、ボコボコだ。
 山に取り付くと早速、土塁状・曲輪状の地形を発見。
 曲輪状の壁は、2段~3段ほど。
               

   


 ただ、図面を書いてみると、
 曲輪の切岸が途中で終わってしまう。


 全てが中途半端。


 結論。


 
人工による削平地ではあろうと思うが、
 麓に近いところもあり、畑かなにかの跡だろう。



 




 ■縄張り図にすると、こんな感じ。。。。。。。。
 
 

 
                  今日一日の感想。。。。あぁ、ちかれた。



 
 
      
一体、堤崎城ってどこなんだろ?










須藤城(写真掲載のみ)




こんなところに須藤城   2014/09/21
 


 バイブル「栃木県の中世城館跡」に、”須藤城”の記載がある。
 が、なかなか場所が特定できず、困っていた。

 今回、栃木市に委託された城館調査のプロセスの中で、
 城の位置が、かつての岩舟町の広報に、記述されていることがわかった。


      位置位置(マピオンへのリンク)


 須藤城は、静和大字古橋にあったのだ。
 しかも、梨を栽培されている「
須藤農園」さんの敷地内であり、
 お話を伺うと、農園のご主人は、なんと、城主・須藤氏第20代目の当主!!。



        なんで、もっと簡単に見つからなかったのかなぁ~!

           

 
【解説】

 遺構が”意外に残っているな”というのが須藤城の印象である。

 まず、鹿島神社の東には、明瞭な堀が残っている。



 


これが、その堀跡。

右手がお墓になっている。
少々、小高いため、
矢倉台?に見えなくもない。
 
















 

 右の写真は、堀を正面から見る。
 

 まず、間違いないでしょう。















 この堀の流れを、
  たどっていくと_______・・












   ・・______先ほど、話した須藤農園の敷地に出る。





 お断りして、敷地内を見せていただくと、

   
須藤農園さんのお宅の北側に、堀の跡が残る。

 おそらく、ここが主郭なのであろう。







 写真は、その堀跡。

 ヤブで覆われてしまっているが、
 堀であるのがお分かりであろう

 



 周囲を、四角く囲んでいたのが
 想像できる。










 




  上の写真の反対側が、右の写真。
  こちらも、堀の残欠がお分かりになろう。




















 さて、敷地内をさらに北に向かうと・・・・・・・









・・・栃木ではめずらしい、緑泥片岩の板碑がある!


 キリーク(阿弥陀如来)がクッキリ。

 正中元年?とも読める。

 正中は、1324-26年の元号。


 鎌倉時代だ。








 















 この板碑の前にも、堀が展開する。
 それが下の写真であるが、この竹やぶの向こうに回ってみると________

           


                    





        _____________・・・・・


            ドッカーン!!!!!
 


 
           


        ご立派!




     切岸の上は、土塁であったようだ。

       

  



               
・・・ということで、図面は後日かな
                
                 (一応完了)


 


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