2019




栃木市6
  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。  

『西友田山?』 『瀧ノ入大屋敷?』



『西友田山?』(とりあえず写真掲載のみ)位置(マピオンへのリンク)  

 破壊された城なのか!?   2013/11/09 
  


 


 岩船山の東方・西友田の独立丘が、
 城跡ではないか?という情報があり、調査に出かけた。

 左が現在の国土地理院の地図である。








 

 が、
 現地に行ってみると、それ以上に破壊が進んでいる。
 はっきり言って、山がほとんど無い。


 
それは、左の航空写真を見ても明らかだろう.




Google mapより





 
 情報では、H23年の栃木市の調査で、
              ”西友田山に土塁が残っている”というお話であった。

 航空写真を見るからには全く期待できず、気も進まないが、とりあえず現地に赴くことに・・・




 
しかし・・・
       
じゃん!

      


     えっ?
       こんな所に神社!?。
     

      
 

   


       やっぱりな。
       まぁ、とにかく、遺構は皆無と言って良いだろう。。


       
(※ここでは、市の情報を尊重し、メインページで紹介させていただいた。)


                         西友田山 完了



『瀧ノ入大屋敷?』(写真掲載のみ)位置(電子国土へのリンク)  

 その① んぅ~ん?   2013/08/16 
 

 瀧ノ入大屋敷にやってきた。

 地元本や他ホームページでの比定地は、大体この辺と思われる
 明治の地籍図の確認結果も、それらしい地形は全く見当たらない。

 普通だったら出かけることもないのだが、
 ”無名城館・川原田城”の事例の様に、「事件は現場で起きている」!ということで、仕方なく重い腰をあげた。



 
左写真は、字”滝ノ入”。
 大平台カントリークラブに接する谷津の最も奥の場所。



 のどかな田園風景。
 お話を伺える人もいない。

  
    
                          
谷津奥にある瀧尾大権現城とは無関係かな?






 滝ノ入の谷津を少し外側から望む。
 ここが城と決定づける遺構は皆無。

  んぅ~???











      ただ、ここからは皆川城が非常によく見える。
      戦略的には監視が必要な場所に思える。

            

                       (その①完了)




 その② んぅ~ん?   2014/06/01
 

 栃木市役所にて意外な資料を発見。
 旧栃木市の遺跡分布図に
 ”瀧ノ入大屋敷の位置”が記載されていたのだ!




 その記載場所が、以下の
赤の範囲
 当方の推定地とは異なり、
緩い丘陵上に比定されている。


     
◆栃木市都市計画図2より
     



 



写真が、その山である。



早速地元の方への聞き取りを開始した。



 









 まず、1軒目のおじいさん、おばあさん。

 『そちらの山に、昔、お殿様が住んでいたとか、そんな話聞いたことがありませんか?』

 「聞いたことねーな。
  でも、この山から出る水が良くて、昔は酒を作る人がおったなぁ。
  静岡の人だったかなぁ~。
  ほれ、じいさん、なんていう人だったけ? 昔、ここのやまの・・・・」




 城の話を伺っているのに、話の矛先が変わっていくパターンである。
 地元の方の親切心は、重々承知なものの、なぜかこうなるケースが良くある。

 そこで、すかさず、
 『あの、すみません。じゃぁ、この山の名前が分かれば教えてくれませんか?』

 「しらねぇなぁぁ。。」


 
 (-_-;)・・・・』


 
終了。。。






 2軒目。
 田んぼの苗に水やりをしている男性がいらっしゃった。
 同じ質問をしてみたが、やはり目的の山に対しては、情報を得られなかった。

 しかし、
 「昔、あそこに大臣(だいじん)が住んでいたと言う話は、聞いたことがある。(地図黄色の網掛け部)
  
城は、あそこでねーの?
  
でも、今はゴルフ場になってしまって、なーんにも無いね。」

 【大臣】とは、どのような人物を指すのか分からないが、大屋敷の所有者のことかもしれない。

                


 また、その男性のお母さんが、こんな事も教えてくれた。

「昔、皆川城の殿様が、ここから見える山で戦争をしたことがある。
 その時の塚が ”千人塚” と言って、山に残っているから、
 そっちのほうが城に関係してるんじゃないの?」

                   



 その他、ここの住民の墓の話。
 神社の話。
 あそこの山からマンガンが取れたけど、儲からなくて辞めた話・・・等々。
  城の話とは全く関係ないが、一生懸命教えてくれる姿に、耳を傾けざるを得なかった。

 最後に、見ず知らずの私に冷たいお茶までいただいた。
          
ほんとにみなさん!ありがとうございます!


・・・・ということで、聞き取り終了。






(1)遺跡調査の比定地

さて、期待はかなり薄いが、本命部の調査開始。



とっかかりは、この林。
6月とはいえ、下草も少なく歩きやすい・・・・

   










・・・と思ったら、いきなり、このヤブ。
小竹のコンチクショーの藪である。




















しかし、山を登り続けると、
枝打ちした杉林に。

なんとも言えず、気持ち良い。

しかし、

【結論】
 遺構無し。











(2)千人塚周辺

 実はこの場所は、当HPのお客様・しぼれ様が、既に踏査されている場所であった。
 しかし、せっかく教えていただいたので、当方も実地確認する事にしたわけである。

場所は(1)の東側。





車を、男性に教わった場所に置いて、調査開始。






 ”自転車も通れる綺麗な道がある” ということで教わってきたが、
 なるほど、しっかりした登山道がある。

             





 道は、栃木カントリー倶楽部と大平台カントリー倶楽部の間をすり抜け・・・・・

             






 ・・・山の鞍部に至る。
 ここには、大きな石碑と塚が残る。
   



 



 石碑には【天正年間草鞍戦死者諸霊碑】とある。
 

その脇の卒塔婆に【千人塚】の文字が見える。
ここが”千人塚”で間違いないだろう。

       














 このあたり草鞍山では、天正年間に皆川広照の軍と、、後北条軍が激突した。
 広照は、多数の死者を出しながらも、関東で勢いづく後北条氏を撤退させたというのだ。

 この碑は広照の子孫が建てたということで、地元の方が、今も忘れずに霊を弔っている。
 
 
 
千人塚のさらに先も歩いてみた。


標高190.2mのピーク。
調査するも・・・・
   














 
     
       【
結果】
            
遺構無し。





 つまり、城と決定づける遺構は皆無である。
    んぅ~???やっぱりよくわからない。。。


 瀧の入り大屋敷。一体どこにあるのか?


                   (完了?)

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