2019

高根沢町枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします

 ◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。   

桑窪城sk 阿久津城(写真掲載のみ






桑窪城sk
位置マピオンリンク


                            copyright masaki 2008
     会社の有休を利用して、桑窪城に行った。

     実は、会社からこの桑窪城はすこぶる近い。

      近いからこそ、近寄りがたかったのか・・・(?)

       行ってみるとびっくりする事ばかり。良好な遺構に目を奪われた。。

        その見事な遺構を見ていこう。
   

航空写真
 
◆国土変遷アーカイブより
     
      遠方より桑窪城を望む。北に峰続きとなるが、独立丘のように見える。
                    

           城の入り口には町の案内板があるため、迷うことは無い。
        ただし、車を置けるスペースが無い。
          私の場合は、近くの墓地に路駐させていただいた。

                                 

各遺構写真 

   A


                    

 C
主郭虎口を西から望む。一番奥まったところに、横矢がのぞく
        

 D
主郭正面土塁から土橋を望む
        

 E
主郭正面の土塁を望む
           
 

【解説】 主郭東面のルート


基本的に単郭の城と考えられる。
遺構の特徴は、なんと言っても塁線上の横矢や、櫓の配置であろう。

図をみて気付くことは
左側(西面)の堀に対して右側(東面)の堀の方が、塁線の屈曲が多い。
それは、なぜだろう??
それは、山の斜面が緩いという、地形的な弱点だけが理由なのであろうか?


管理人は図の右側(東面)からの登城口を、
紫色の線と考えた。
この路は、敵に九十九折の東斜面を登らせ、主郭回りの堀内に導くよう設計されている。
堀に出た敵は、主郭
のおそらく櫓台上からの頭上攻撃を受けることになる。
の左手の堀は、土橋で袋小路となるため、敵は図面上方(北)に向かうしかない。
北に向かう敵を、さらに横矢
B、Cが襲う。

堀内を散々回らされた挙句、敵は、最後に
の斜面を登ることになる。
この時、正面の
のおそらく櫓から再び頭上攻撃を受ける。


地形的弱点の対処だけでなく、登城ルート(導線)を長く取ることや、
横矢の設置により、迎撃の時間を増やし、敵を激減させる。
   
     ”弱点をチャンスに変換させる。”

こんな意図がこの登城口には感じられるのである。

【解説】 その他のルート

最北端の長い堀は、完全に丘陵を分断している。

堀を城外のどこから渡らせていたかは良く分からないが、
北側からのルートは堀の内部ではなく、土塁上を歩かせていた。
おおよそ、
●●●で間違いないだろう。

というのは、主郭西の土塁は部分的に縦堀を落とし、太いところと細いところのメリハリをつけている。
わざと通路を狭く細くし、敵の侵入スピードを減衰させる意識を感じる。
対照的に主郭東側の土塁にはこのような加工は見られない。

      
         ◆幅の変わる土塁


主郭の南は現在畑として大きく加工され、旧状が分からない。
が、これだけのスペースを無駄にしているわけもなく、城にたずさわる人たちの居住スペースと見てよかろう。

当然のごとく、主郭へのルートは
●●●と考えられる。

      

主郭南の虎口は、右手は完全な横矢。
左手は、堀の流れからすると、横矢が掛かっており、
微妙な合横矢になっている。

土橋前面にある土塁は、蔀土塁と同じ効果を狙ったものなのか、土塁や馬出しの残欠なのかハッキリしない。





◆主郭虎口

築城者などはハッキリせず、稲毛田城(芳賀町)の支城といわれている。
1361年に稲毛田城が宇都宮氏に攻撃され廃城となり、当城もそれにならい廃城と考えられているが、
縄張りには、その時代以降の新しさを、個人的には感じている。






阿久津城sk位置マピオンリンク

線路でバッサリ!分断された城 2012/05/
 
【解説】  阿久津城は、東北本線でバッサリ東西に2分割されてしまった城である。

    
 
 傍らに立つ城址碑である。

 車は碑から少し下ったところに、道路脇に広いスペースがある。


















  訪城は、八幡宮を目指そう。

  あら?鳥居が壊れている・・・・・・・



     
       よく見れば、狛犬は台座から落っこちて、社殿もブルーシートで覆われている。
           

             東日本大震災後、まともな修理がされていないらしい。



  城はヤブで覆われ、良くわからないが、縦堀のようだ。

  東面の切岸。

  これも縦堀?かな?

                      


第2回 中身も相当ひどい 2013/01/22
 

那須烏山・加登べ城の帰り、阿久津城に寄ってしばし城見学。



調査してみてわかったが、何しろ破壊の限りを尽くされているのだ。

特にJRに分断された東半面はひどい。

畑に開墾されてしまったのか、縁辺部にしか遺構が残らない。


さりとて、西半分が良いのか?ということになると、

これまたそうも言ってられない。

何しろ、すごいブッシュなのである。

いつ電車に轢かれるのか?・・そんな不安のよぎる阿久津城なのでありました。













                   
つづく・・・かも
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