2019
大田原市2 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
岩谷要害sk |
ちょっとでかくねぇ~っ!この要害。 2013/10/28 2013~2014シーズン第二弾 |
【プロローグ】 日光市の中三依城でシコタマ体を痛めた私。 でも、このままじゃいかん! せっかく台風も遠のいて、いい天気になった。 せっかくのシーズン到来なのだから、少しでも城を見に行かなくては! なまった体と、なまった縄張り図作成感覚を取り戻すために、 私は今日も重たい体をひきづり行くのです。 そう!。城巡りに・・・・ さて、今日のお題はということで地図を眺めていたら、 岩谷要害の文字が目に付いた。 『たいして山も高くないし、平面的な城だから、ここなら無難に終わりそうだな・・・』 こんなはずじゃなかった。 丸々5時間、山の中に入りっぱなし。 昼飯、食う時間無し。 なんでぇ~!? そう。 のです。 車は岩谷観音に駐車。 縁側で準備をする私。すっかりオヤジになったなぁ~。 ・ |
修正調査 2013/11/03 2013~2014シーズン第三弾 |
【解説】 2013/11/3。 修正調査後、下記彩色図を作成した。 これに基づき遺構を解説したい。 『北の堀』 北の堀。 本当に遺構であるのか?、疑問視する声もある。 しかし、堀の壁は、常に城内側が高く、 しかも最頂部は堀幅も広いことから 管理人は、城の遺構と判断している。 道であれば、この様にはならないと考えた。 写真は最東端を下から見上げる。 北の堀。 最頂部は堀幅も広い。 これが、北の堀を『遺構』とした 由縁だ。 写真は西に向かって撮影 北の堀西側はみつ蜂巣箱。注意されたし。 『主郭』 主郭・北堀。 主郭側(左手)が明らかに高い 主郭・東堀 右が主郭。 主郭・西堀 堀が南に向かって 緩やかに下る。 主郭・西堀(主郭・曲輪②境界から) 写真ではわかりづらいが、 手前に向かって堀は下ってきている。 主郭・東堀南側 土塁が微妙に食い違い、 堀内から見ると、土塁が真正面にぶち当たる。 意図的な感じを受ける。 縦堀②内部 上記、食い違いの土塁から縦堀を降りる。 縦堀内に道があるが、後世の改変と思われる。 写真は縦堀から主郭方面を望む 『曲輪②』 曲輪②西堀 主郭境界から堀を見下ろす 写真向こう側(南に)緩やかに下る。 曲輪②東堀。 こちらも、南に堀が下る。 曲輪② 南東 虎口 土塁が切れる。 縦堀が伴わないことから、虎口と判断。 斜面が少々きついが、 麓の堀之内集落には ここから降りていたと思われる 曲輪② 南の堀 堀の正面に土橋のように見える遺構があるが、 崩されて出来た可能性も否めない。 曲輪『③』 曲輪③を南北に走る空堀は壮大。 『南の堀切』 最南端の堀。 ここだけやけに堀幅が広い。 中腹の岩谷観音。 平坦面や壁面は造作されており、 往時の姿か、疑問である。 おそらく、 城を背後にした居住部があったと思われる 岩谷要害は在地の城(角田氏)である他に、 その規模から『北の関ヶ原』の時に作られた等、 色々な説があるらしい。 確かに曲輪内部が未加工のところもあり、 臨時的に作られた感覚も理解できる。 しかし、規模がでかいのだ。 堀もしっかり作られているし、 ある一定期間しか使用しない陣城仕様とは思えない。 在地の城であったと言っても、過言では無いような気がする。 城跡近くの”黒羽の館”。 女房と食った手打ち蕎麦。 揚げたて天ぷらは美味である。 皆さんもご賞味あれ。 (岩谷要害コンプリート) ・ |