2019
日光市8枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
茶臼山(鞍ヶ崎城)マピオンへのリンク
第1回 茶臼山 2006/11/18 |
◆国土画像回覧システム(国土交通省)より |
【解説】 茶臼山には、立派な城郭遺構があった。 ”栃木県の中世城館跡”や、”日本城郭体系4”では、当城の位置が不明確のようなことが書いてあるが、 茶臼山の2箇所のピークに明瞭な遺構を残すことが確認された。 宇都宮興廃記によれば、天正15年・1587年、 大宮城(塩谷町)と、鞍ヶ崎城(当城)が再興されたという。 同年宇都宮氏家臣、大門資長が守備していたが、日光山勢の攻撃をうけ、あえなく落城したという。 この後の歴史は、語られていないようであり、 ということは、天正15年頃の遺構を残していることになる。 茶臼山全景。 右端のピークと、その左隣ピークに 遺構が存在。 登城口 いきなり、これ。 まあ、ハイキングコースとなっているため 登城するのに、苦労はない。 つぶれたレストラン?の駐車場に車は置ける。 ◆写真対応用図面(sk) ①馬出し この城のメインの遺構、馬出し。 天正15年かぁ。 宇都宮氏も使用していたのだな。 分かりづらいが、①の写真にルートを書き込んでみた ②縦堀 唯一、西斜面を下る、巨大な縦堀。 ③尾根上を下る、怪しい土塁 尾根上を怪しい土塁が走り、④へ繋がっていく。 北面の谷内部を意識した防御か。 写真正面は堀切。 ④山腹を回る、怪しい曲輪 ③から、この④に続く。 ④は斜面を斜めに上がり、峰上の小さな堀切につながる。 細い、帯曲輪に見えるが、かつては空堀であろう。 ⑤山ろくを走る空堀 ここは、空堀の形を今も残す。 正面の日差しのところが、馬出しのある堀切。 |
第2回 速報! 茶臼山外郭遺構発見! こんなところまで・・・ 2015/7/19 |
2006年、今から9年前、私はこの城を訪れた。
宇都宮氏が作ったと思われる馬出しや、谷を縦断する長い縦堀の防御に感動したものだ。 2015年のこの夏、管理人は運動不足の解消のため、山に登りたくなった。 ”どうせだったら城跡があって、ハイキングコースが整備されている山がいいな” ということで、選んだのがこの茶臼山のハイキングコース。 かつて登ったこの山を、もうすこし先の方・・・できたら毘沙門山あたりまで歩いてみようと思ったのである。 なつかしいハイキングコース入口から、山はいきなり急峻となる。 登りつめると早速堀切がある。◆マウスを乗せよう この堀切を超えれば、いきなり馬出のお出迎えだ。◆マウスを乗せよう この他、この城の見所は満載だ。 ◆谷を塞ぐ空堀 ◆同上 本城部分から、しばらく歩くと、小さなピークに出くわす。 ピークからは、東へ尾根が続くのだが、よく見ると、削平地のような1段の曲輪が見つけられた。 ◆削平地 「自然にできたものか?それにしても綺麗に削平されてるな・・・」 と軽く見過ごして、先に進んだ。 「どうせ、何もないだろな」 と思った瞬間、突然道を規制され、がくんと道が落ちる所に出くわす。 「おや?」 落ちたところから、長い土橋のようなものを渡る。 そこから今きた道を振り返ると、きっちり綺麗な切岸になっているではないか! 堀切かな? いや、間違いなく、堀切&土橋だ。 茶臼山に新しい遺構が加わった。 GPSによる、堀切位置はここである。 ◆発見した外郭の堀切 ※外郭堀切以北の調査も敢行しておりますが、話が長くなるので、城郭情報調査に書き込みます。 (つづく) |
第3回 茶臼山外郭遺構と本城との位置関係 2015/8/7 |
今日から大型連休である。
管理人は、再々茶臼山を訪れていた。 アホみたいに3度目である。 実は前回、失敗していたことがある。 それは、発見した外郭遺構と、茶臼山主要部からの距離を測り忘れていたのである。 これが、どうにも気になって仕方がない。 で、再訪となったわけである。 所謂 ”3度目の正直” というやつである。 ということで、今回の目的は、この距離の補足と、第2回で登頂できなかった毘沙門山へのアタックだ。 |
【解説】 いつものように、営業を停止したレストランに車を止め、登山スタート。 こんなクソ暑い日に誰が好き好んでこんな山を登るであろう。 前回もそうであるが、他のハイカーとは、全く出会うことはなかった。 これまた、いつものように主要部の素晴らしい遺構を横目に、山を縦走する。 ◆岩が露出する茶臼山、第一峰の主郭 ◆第二峰の主郭 さて、主要部第二峰の北の堀切に到着。 小さな堀切であるが、ここからは谷を横断する空堀が一直線に尾根に向かって降りていく。 今回の宿題は、この小さな堀切から、発見した外郭遺構までの距離である。 早速、補足調査開始。 ◆第二峰 北堀切 当たり前だが、高低差のない痩せ尾根が続く。 外郭遺構の、一段曲輪の伴うピークまでを歩いたのだが、結構距離があった。 結果、約100mという結果になった。 ◆一段の曲輪の入り口 ◆一段の曲輪 ここからさらに外郭の堀切までは140mほどあるので、 主要部の小さな堀切から外郭堀切までは total 240m もある。 この距離だと、確かに茶臼山の城跡を見に来た人は、なかなかこの外郭の堀切までは見に行かない思う。 見落としても当然である(・・・と、自分を弁護している) もう一度、最北端の堀切を見てみよう。 入口は平入りの虎口である。 土橋からの高低差は2mほどであろうか。 ◆上段から土橋を望む マウスを乗せよう 土橋は、非常にしっかり作られていて、 堀切底から約1mほどある。 特に、東側の壁が高い。 また、土橋長さは7、8mほどあろうか。 よって、堀切幅も広くなっているが、深さは浅い。 土橋側から見ると、このような感じ。切岸がハッキリと目に付く。 ◆マウスを乗せよう 前にも書いたが、宇都宮興廃記によれば、 天正15年(1587年)、 大宮城(塩谷町)と、鞍ヶ崎城(茶臼山)が再興されたという。 同年宇都宮氏家臣、大門資長が守備していたが、日光山勢の攻撃をうけ、あえなく落城したという。 とすると、日光勢力の当城への侵略経路は、毘沙門山からの北からの尾根続き、そして、東方面の谷方向、南方向・・・ 西方面は急峻な地形に依存して、ちょっと手薄な感もあるが、結局、全方位に向けて防御の意識がこの城にはある。 これはある意味まわりが敵だらけだった事を示す。 茶臼山は、日光勢力の真っ只中に築かれた、最前線の城だったということになるまいか。 (まとめへ つづく) |
まとめ・茶臼山 2015/9/3 |
■ 茶臼山彩色図 2006/2015の調査結果を合体して作成。 |
【解説】 2006年と2015年の調査結果をもとに、改めて図面を作ったので、 両年度の写真を使って、茶臼山の遺構を再確認してみる。 説明の便宜上、大堀切りを境に南の頂を「第一峰」、北の頂を「第二峰」と称する。 ■第一峰 ①まず、茶臼山のハイキングコースをすすむと、最初に出迎えてくれるのが、この堀切である。 ◆マウスを乗せよう。 ②この堀切には土橋がかかっており、その先は馬出しとなっている。 ◆マウスを乗せよう ③馬出の周りは、堀で囲まれ、なんともギミック。 ④ 馬出からは谷に向かって横堀が降りていく。 途中、堀がなくなるが、往時は全面掘りであったと考える。 同じような遺構が対岸の尾根からも伸び、カニバサミの堀により、谷全体を防御する形になっている。 ⑤堀内部から、馬出しを望む。 ⑥茶臼山第一峰の主郭の壁面である。 岩盤が露出している。 ⑦第一峰を越え、一度下ると、2重堀切となっている。 その北側の堀切はしっかりしたもので、なかなかのスケールである。 ■第二峰 ◆全体図 ⑧ ⑦の堀切を超えると第二峰である。 ここが、地図登録上の茶臼山のようである。 ⑨第二峰の北側には、小さな堀切がある。 当初、この堀切が茶臼山の北限と考えていたのだが、今思うと稜線上のこの堀切は確かにチンケである。 ⑩しかしながら、この堀切からは第二峰主郭から派生する尾根に向かって帯状の曲輪が延びる。 今は埋まっていると思われるが、おそらく堀であろう。 それを下から見上げる。 ⑪斜めに下る堀の先は、第二峰主郭から伸びる尾根の堀切に合流する。 ■第二峰以北 ⑨の堀からさらに先に進む。 しばらくすると、稜線が少し登り気味になる。 ⑫その傍らに小さな曲輪が現れる。 曲輪は綺麗に削平され、尾根に向かって一段のみ。 最初は 「なんで、こんなところに曲輪があるんだろう??」 と思っていた。 ⑬しかし、その理由はすぐわかった。 上記小曲輪の先に以下のような大きな堀切があったのだ。 この堀切から、先には城の遺構はなく、ここが茶臼山の最限となる事が分かる。 ⑭堀切は、かなり埋まっているようで、そんなに深いものではない。 ただし、とても長い土橋が併設されている。 ◆マウスを乗せよう。 土橋は高さもあり、特に東側(図面下方向)の壁がより高い。 第二峰から約240m。 こんなところに、北限の堀があるとは思わなかった。 ◆マウスを乗せよう。 茶臼山は、全方位を警戒していると先に述べたが、この北限の堀切を見てしまうと、 やはり南北に走る稜線上が、この城の最大の弱点と考えられていたのではなかろうか。 (茶臼山コンプリート) |