2019

 


日光市6
枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします

 ◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。

          

長武山城sk 明神城sk




長武山城sk(城の位置)電子国土へのリンク

新城確認長武山城sk 地元では認識されていた城 2013/03/03 

本ホームページのお客様、しぼれさんの情報で、長武山(ながだけやま)を訪れた。


実はこの山、とあるホームページで

   ”小山城の出城ではないか?”と調査されていたが、”城では無い”と位置づけらていた場所。


・・・ということで、管理人としても重きを置かず、放ったらかしににしていた場所である。


それを、しぼれさんご夫婦は、丁寧に現地を調査され「城あとの可能性あり」と当方に提供されてきたわけだ。

まあ、経緯はこのような感じ。

早速、現地踏査結果を速報として公開しよう。

              

              
時刻は朝7:10。車は小林4区の公民館に。



正面右手が目指す「長武山」。







 長武山を登るには、写真正面のお宅の
 左手から取り付くことになる。


 公民館のゲートボール場にいたご婦人に
 お話を伺った。

 

 
地元では、
 この山が「城跡」という認識があるそうだ。


 ご婦人の幼い頃は、ヤシオツツジが咲き乱れる
 綺麗な山であったという。 
 


 今は山は荒れ放題である。
 





 


解説】

 長武城は、宇都宮と日光市の境近くにある。
なんでこんなところに?(
地元の方、ごめんなさい!)と思うくらいな場所。

しかも、城域は、尾根の限られた先端部のみである。
凄いブッシュで、並みの人は決して訪れないだろう。

こんなところが、なぜ城跡だとわかったのは、やはり地元の伝承が残っていたからに違いない。

            





廃屋のある、わりとひろい主郭と、
その南に続く細尾根を築城エリアとしている。


この廃屋は、「とうかい寺」という寺が建てたお堂の痕跡。
かつては地元子供達の格好の遊び場だったと言う。




   


この廃屋のすぐそばに、虎口がある。

土塁を伴う虎口で、お堂の建設造成で出来たのかとも思える。

しかし、縦堀で通路を狭めている事などから、
往時の形態をそのまま留めていると考える。














また、

主郭南にも、同様に壁と土塁を組み合わせた一折れの虎口がある。
北虎口と同様、クランクさせている。
ここに、この城の技巧的な一面を見る。

この先の堀切が、
「城」あることを決定づけた。




 

全体を俯瞰するに、守りたい方向は見い出せない。
全方位に警戒が走る。

地元では、長武山城は西方の”小山城”の支城と言われている。
小山城は、宇都宮氏と対敵していた日光勢力の城と言われている。
つまり、長武山城も日光勢力の城となるのだ。


確かに長武山城は、宇都宮氏に寄って再興された、鬼怒川対岸の大宮城方向を警戒しているようにみえる。
しかし、私は小山城を堀の形態から、宇都宮氏の城と推測している。
つまり、長武山城も宇都宮氏の城ということなのか??

 相反する史実(?)と推測。

 結局、

       ”わかんな〜い!byローラ。




歴史なんて、それでいい。
それだから、ロマンがあるんだ。

しかし、なにしろ、山が荒れていて、小竹が生い茂る。
写真を撮っても以上の通り。 
まるで絵にならない。
 
”しぼれさん”たちが行っていない山の東も巡ってみたが、遺構は長武山周辺だけである事もわかった。

やっぱり、自分の目で確かめないといけないな。今回の反省である。





本日の探検コースである。



















この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。










東峰最後の山上様にご挨拶をして・・・



山を下る。


男体山、女峰山に挨拶をして帰宅する。時刻は9:30。

 
 




            
(長武山城コンプリート) 


明神城(仮称)sk(城の位置)電子国土へのリンク

新城確認なんで誰も知らないの?2012〜13冬第14陣 2013/04/16 


 妻が体調を崩した。
 病院に行ってみると、香港A型インフルエンザと判明。

 この日は、午後1:30から我が家に電話工事が入る。
 工事に立ち会う人間が居なければならないが、妻には対応は無理だ。

 仕方なく急遽、私は会社を休むことになった・・・

 



                           
!




 
                    しかし待てよ・・・・・



 
工事までには時間が結構あるな・・・・

 朝駆けすれば、電話工事の時間までには家に帰れるぞ・・・




 
よし!
    本ホームページのお客様、しぼれさんの情報
    日光市・明神の標高454mの山に登ろう!!。




 高熱を出し寝込む妻を家に残し、私利私欲(?)のため、私は車を飛ばしたのである。
 ゴメンネ、あっこ!それがあんたの旦那です。






                         で、家庭内のリスクをしょって見てきたのがこれ!


                           ●



                           ●




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                           ●

 結論
  投稿どおり、正真正銘の城郭です。




                  
栃木県にまたまた新城誕生だ!

         


              










 さて、

 この城を描いて思った、私のファーストインプレッション。


  この城の築城者は、  板橋城の築城者と一緒だ!

 理由については、まとまってからお話しよう。

 
 

近くの道端に停車

最高部が主郭ではありません。主郭はさらに奥!




            さぁ、お城見学始めますか。

 
【解説】
     
         (ちょっと、作風変えました。)


 
 


筆者は主郭南方、熊野神社から山に取り付く。

この熊野神社は岩盤で覆われており、見た目にもひとつの要塞のようだ。


◆神社を取り巻く岩盤







熊野神社から
北に続く尾根に縦堀が施されていることからも、
明神城の一部と考えた方が良さそうである。





 







    そこから細尾根を登れば、数段の曲輪と縦堀を伴う堡塁に出る。

    さらに、登ると尾根を食いちぎる様な縦堀がある。
    完全、通行を妨げるように配置されている。


                     ◆マウスを乗せよう







 さらに登ると、細長く広い尾根上に出る。
 あたりを見回すと、この尾根の先端部分は、縦堀が4方向に走っていることが観察される。 

  








  

 城道を辿り、管理人は西に向かう。



 そして主郭の直下に現れるのが、
 この切岸である。

 上部に上がってみると、曲輪にはなっていないが、
 すごい圧迫感である。

 

   












 さらに上にのぼり、管理人は主郭直下の南の曲輪に向かう。

 ここには唯一、土橋を伴う堀切が設置されている。
                          ◆マウスを乗せよう
 


 
 
                  ◆同堀切を下から望む        
              



           土橋付き堀切の西下尾根にも、小さな堀切が配置されている。










   さて、主郭へ向かおう。


   主郭には、5輪塔の名残の様な残骸が残る。

   人気(ひとけ)のない山であるが、”標高454m”の名札が付いていることから、ある程度人は登って来る所らしい。

        




 それもそのはず。
 この山は非常に手入れが行き届いていて、見学にはもってこいの山だ。
 主郭周りの曲輪も、ご覧の通り、はっきりしている。

              

 主郭切岸◆マウスを乗せよう




     主郭には、内部を2分するかのような、仕切りの大きな堀(溝?)が存在する。

     
               


  さて、 
当城の見せ場は、下写真の虎口ではないだろうか?


正面から入らせるの(青網掛け)だが、
内部で屈曲させ、敵の侵入スピードを減速させる。
その間に、攻撃に転ずる。

また、本虎口の北にある通路の入れ方も面白い。

縦堀を2つ配し、通路を狭めている。
通路を踏み外せば、急斜面に落っこちる。

これまた敵の侵入スピードを減速させる手法だ。



             ◆マウスを乗せよう
             









                                       


 

 



  
この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。



さて、明神城の真向かいに見える板橋城。

読者はこれを見て、お感じにはならないだろうか?

   そう!とても似ているのである!


@まず、縦堀の配置。(
―赤線と―黄緑線)


 尾根を挟み込む縦堀と
 斜面に片側だけしかない縦堀。
 つまりは必要な面にしか施さない、手抜きさ。



A細長い曲輪取りと山腹の取り込み(−青線)

 山の形にもよるのであろうが、
 主郭を2分する構造など、そっくりである。

 山腹の平坦地を城域とする事も似ている。

 これも山の形に左右されるだろうが、
 山腹の平坦地も城域として取り入れ、加工する。

 考え方によっては、大きな堀切を配して
 使わなかったりもできるはずなのに、
 そこを、あえて取り入れている。

 このあたりが、
 板橋城と明神城の縄張りが妙に一致している。

 






 つまりは、冒頭にも書いたが、
     築城者が同一と考えるのが穏当であろう。

               この城の築城者は、  板橋城の築城者と一緒だ!






山を下山し、熊野神社を降りると、地元の方の民家裏庭に入ってしまう。
                                    

 お断りをしようと様子を伺うと、納屋にご婦人がいらしたので、言葉を交わすことになった。

 少々、耳が御不自由のようであったが、わかったところで書き留めると、

 @まず、この山に城があったという言い伝えはないらしい。(ご婦人が知らないだけかもしれないが)
 A熊野神社のある山は、熊野山というらしい。昔は温泉が出たとも言う。
 B454mの山の名前は聞いたことが無い。
 Cこのあたりの字名は明神。

         やはり、地元民にも忘れ去られている城のようだ。

  
                    
                     道端にはカタクリ、一輪草の花が咲き乱れていた

                   
(明神城 コンプリート)


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