2019
日光市枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
【写真と文】 鶴が渕城は、北の関が原(※)に備え、上杉景勝が作ったものだとする考えが一般的だ。 この城は従来、土塁に囲まれた”居館跡”と考えられてきた。 しかし、これを、”馬出し”と説いたのは、わたしの記憶では西ヶ谷恭弘氏である。 かなり、昔の話であるが、氏の図面をみて感動したものだ。 男鹿川に交差するように土塁・堀が伸び、それは山の斜面を登っていく。。。。。 その記憶は今も新しい。 現地に行くと、確かに土塁囲みの四角い空間がある。 但し、この空間より、北の塁壁の方が高い。 すなわち、この空間は城内には無く、城外方向にある。 居館を城外に作る馬鹿はいない。 土塁囲みの空間は氏の言うように馬出しと見て間違いないだろう。 (※)関が原の戦いの直前の上杉景勝と徳川家康の対極。 結局、石田三成の動きから、小山評定にて家康は西走する。 雨が時折強く振る2009.5.29. なけなしの有休を使い、やって来ました、鶴が渕城! 普段はロープなど張ってないのに、 今日は通行不能だった。。。。 付近には誰も居ない。 ちょっと、失礼! 城址解説碑が入口に設置 馬出し内部。 土塁が右肩上がりになっている。 山側(西側)の土塁。 結構な高さがある。 3mほどあろうか。 馬出し内部から、 入口方面を望む。 馬出しから川への降り道。 主郭回りの堀 西の山に向かい堀が伸びる。 長塁だ! 正面の橋は、野岩鉄道。 振り返って川側(東側)の堀 川の崖で、THE END。 野岩鉄道の線路を渡り、反対側へ。 線路横には、すぐ道があり、 写真左手に堀が続く。 西ヶ谷氏の調査図の横矢は現状と逆。 しかし、草が多い。 まあ、登ってみるか・・・・ 管理人は、斜面に取り付く。 なるほど、これか・・・ 横堀は縦堀に変化。 図の左側(北)の壁が高い。 写真は、斜面下方に向って見る。 でも、大分埋まっているな。 縦堀を斜面、上に向って見る。 ちょっと分かりづらいが、 写真右(北側)の壁が高い。 堀は、ほとんど埋まっているようだ。 縦堀は、この直上で収束する。 さて、この先はどうなっているのか、、、、、 かなり先だが、ピークがある。 確かめる必要があるな・・・・・・・・・・・・・。 |
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copyright(c) 2008 masaki |
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2008年10月、今シーズンの手始めとして、轟城を訪れた。 慣らし運転だから、簡単な真四角な城を・・・・とチョイスしたつもりだが、 これが微妙な角度や曲線部分のある塁線で、なかなか主郭の線が書きあがらない。 やっとのことで主郭を書きあげたが、やぶ蚊にさされ、草の種が体中に張り付く始末。 やっぱり、まだ見学シーズンにはちと早い!? |
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【解説】 轟城(とどろくじょう)の入り口は非常に分かりにくい。 教育委員会の看板を国道461沿いに見つけ、看板脇の細い路地に入り込むが、 果たして轟城はどこにあるのか・・・・・・・・・・・? ◆轟城の前の道 あった! 入口発見! でもこの看板。 文字がにじんでるし、見過ごす人も多いんじゃないのぉ?? ◆入口の看板 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◆国土画像観覧システムより ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 入口の看板からまっすぐ延びた道を直進し城内へ向かう。 早速堀にぶつかった。 ここには橋が架かり、下を滝のように水が流れている。 水路として、堀が利用されているようだ。 ◆カーソルを乗せると実際の写真になります 橋の向こうは、土塁が切り崩されて虎口のようになっている。 管理人としては、図の『虎口か?』と書いてある土塁の切れ目が真の虎口に近いのでは? と考えているが判然としない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ もっとも虎口としてしっかりとした遺構はこちら西側。 ◆カーソルを乗せると実際の写真になります 外部からの本来のルートはこの虎口であろう。 虎口回りには、石が使われていたようで通路内や壁面に点在する。 このことから格式の高い正門に近い虎口と言ってよい。 ◆虎口内の点在する石 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ また、ハッキリと明言できないが、東の壁面には 浅い空堀があったと考える。 (赤い線内で示す) こちら側の山傾斜面が、緩いために強化したか、 堀内へ誘導するための通路だったかもしれない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 城内に残る井戸跡といわれるところである。 大きな穴が開口する ◆井戸跡写真 |
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轟城の歴史は、どの本を読んでも判然としない。 伝承のみ残る城であるようなので、記載はやめておく。 遺構面から見ると、本城の堀の規模はかなり大きい。 大工事の末できた城に思えるが、『梅ヶ沢』と呼ばれる城の東側(図面右手)の堀は、もともと大きな谷である。 また、この城のある台地はかなり水が豊富のようである。 『水流群跡』と書かせてもらったが、台地べりにたくさんの水が流れてできた侵食谷が残る。 当初は城の遺構かと思ったが、谷の端部に水神様の祠があちこち残っているため、遺構と区別できた。 つまり、この水流でできた侵食谷や水流跡を利用し、さほどの工事はいらずに方形の城が築けたのでは? と私は感じているのだが、いかがなものであろうか。 |
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