2019




那須烏山市4
  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
  

高館城 小塙(館)sk  放下僧(館)sk







高館城  位置(マピオンへのリンク)

ライン防御の城2012〜3冬第10弾 2013/01/22


那須烏山市森田字輪の内にある、森田城・高館城・加登べ城、そして荒川で囲われた字名「輪の内」は、
ひとつの城塞都市のような様相を見せる。


               
                       この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。






 ◆輪の内から高館城を望む・・山の鉄塔付近                  ◆加登べ城を望む        









                         ◆同じく森田城を望む
                    


 車は近くの公民館に置かせていただいた。◆輪の内公民館



 登城路としては、綺麗な林道(かなり前のもので荒れている)が麓より続いている。
 この日は、雪が残る林道を進む。

          




 
 さあ、城跡到着だ!

        





 
【解説】

図面を見ておわかりになると思うが、基本、単郭の城である。
そして、どちらかというと空堀防御ラインの城である。
  




 空堀ラインは比較的傾斜の緩い西側に向いている。
『西横堀』と仮に呼称しておく。

 城の東斜面は、西側より急斜面だから防御施設が少ないという事も考えられるが、総体的に西寄りに意識のある城である。
 ちなみに近くの森田城も警戒方向を西に置いている。

 これは、宇都宮方面を意識したものと考える。
 
            対・宇都宮氏戦略ということだろうか。



 写真は西横堀を望んでいる。
 土塁を伴ったしっかりした堀である。











     反対側から望む。 

 

 また、西横堀から曲輪A、Bへの導入には、
 曲輪Cが介在していたと考えられる。

 堀底から、Cに入り、そしてA,Bへ分岐していた。

 このことから、Cは、一種の馬出し的な機能を持つ曲輪と考える。















写真は曲輪AとBの境界の堀。


わかりづらいのだが、写真右手の方が土塁もあり、壁が高い。
このことから、Aの方がBより上位の曲輪ということになろうか。















最南端堀切より、B曲輪を見上げる。

立派な壁であり、圧巻である。














なお、このB曲輪の南は、雑木林になっているものの、
ゴルフ場造成時に、大きく破壊されている物と考える。

大きく開いた縦堀も、影響を受けていることが否めない。




















  ところで、この高館城のゴルフ場建設前の航空写真画像に、気になる物を見つけた。

 ゴルフ場建設前は、高館城のある丘陵は南北に細くのびる独立丘状であった。
 それを見ると、B曲輪南に大きな縦堀が存在していた事が読み取れるのだ。
 
 県の刊行本”栃木県の中世城館跡”の縄張り図にも縦堀が描かれているが、この事であろう
 

 大きく稜線を分断する堀切。
 しかも、写真ではどちらかというと宇都宮方面、西側斜面に大きく掘られているような気がする。
 


 今では、ゴルフ場造成の影響もあり、見る陰もない。


 

◆国土観覧画像システム 昭和49年より




                         
高館城コンプリート


実験A 高館城の主郭のコーナー部の角度を計測する。2012〜3冬第15弾 2013/03/06記
        高館城の主郭のコーナー部の角度を計測してみよう。

 【実験内容詳細】

    高館城の
主郭コーナー部は、
    直角ではなく
鋭角になっている。
     
      ただ、藪がひどくその角度が非常に捉えにくい。
      これをGPS軌跡がどれだけ正確にトレースできるのか?

  早速、GPSロガーを首に下げ、早速、加登べ城の主郭を歩いてみる事にした。



 

         

 結果

 赤いラインが、管理人の足跡であり、曲輪のラインである。
 なんとなく、コーナーが鋭角なのは確認できたが、やはりログが飛んでしまっている。部。
 5秒おきのデータが、飛んでしまっている。

      

 が使えるデータポイント。
 やはり、正確に曲輪の形を捉えるには、工夫が必要なんだな〜。


              
「この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。」


   






小塙(館)sk  位置(マピオンへのリンク)

 小塙(館) 2012〜3冬第13弾 2013/02/03

地元の案内板も”小塙(館)”と称しているため、名称はそのまま使用する事とした。
                   



 小塙館はJR烏山線・小塙駅のそばにある。

 実は、現在残る姿は中世城郭ではなく、

 近世の陣屋であり、森田陣屋とも称す。










 陣屋内には現在集会所があり、場所はすぐわかる。

                   ◆陣屋内にある集会所



 陣屋内は現在、農地や民家となり破壊が激しい。
 情報では、陣屋東側と西側に堀・土塁が残っているということで、早速調査に取り掛かった。





         
 まず、陣屋西側の調査を開始。
 ここが、もっとも残存状況が良いということだ。


 写真の畑から藪に潜入。


 そうしたら、何しろこの藪が、手ごわい、てごわい。


 冬なのに、青々とした高さ1.5m〜2mほどの笹竹が
 密集しているのだ。

 歩くたびに体にまとわりつき、前進を阻む。
 また、なにより困るのが、視界がきかない。
 特に笹竹が密集し過ぎで、地面の状態が全くわからない。


 なんとか、笹竹を掻き分けて掻き分け、地面の状態を探る。




 こっちが高いかな?段になっているかな・・・ということで、描き上げたのがこの図面だ。

               

 曲輪内部の残存状況は、はっきり言って正確ではなく、見落としがあるかもしれない。

 
     誰かあの藪を断ち切って欲しい!。


                             
 

【解説】


 なんとか陣屋西部が確認できた。

 その縁は土塁になっていることを確認した。
 しかもこの土塁沿いには、見事な堀が残っている。


              






 左写真は、堀コーナー部である。


 下写真は、それに伴う土塁である。
 土塁に伴う小さな堀は空堀だ。
 少々、埋められている感がある。

 


 官公資料・栃木県の中世城館では、この堀を水堀と称している。

 たしかに水堀の役目も兼ねているだろうが、水は川の様に流れがある。
 
水を溜めた水堀というより用水路”と言ったほうがイメージが沸こう。

 この用水路は陣屋を築く際に、台地上に沿うように意図的に作られたと考える。

 官公資料・栃木県の中世城館では、この堀が閉じた形になっているが、これは
誤認と思われる。
 用水は堀を2分し、
その切れ目から小塙方面に流れ出ている事を確認した。






 陣屋北面は荒川への急峻な崖である。

 歩くたびに足がすくむ。
 落ちたら、ひとたまりもない。

 



 ドキドキしながら、陣屋北のラインを描き上げ、
 陣屋東部に取り付いた。

 過去の資料では、土塁と堀が2重に描かれているが
 1重目は、コンクリート塀が設置され、昔の面影は無い。

     


 さらに、2重目の堀を観察するが、これは、堀と言うよりも自然の谷である。
 人工的な匂いはあまり感じられない。

    


 官公資料・栃木県の中世城館では、ここも水堀と称しているが、はっきり言って「沢」である。
 ただ、この沢の侵食谷が異常に深く、まさに天然の堀と言えよう。

 この沢は、南に行くに従い収束し、道路手前では全くなくなってしまう。

      

 縄張り図を見て頂ければおわかりになると思うが、この道路南面方向は、まったく復元不可能な状態になっている。




 とにかく、ほのぼのとした田園にある小塙館。

 見学中、カメラを持った人たちを結構見かけるので、陣屋を見に来る人も結構いるんだな

 ・・と思ったら、陣屋横を走る、烏山線を写真に治める”撮り鉄(とりてつ)”達であった。

         

 どうも、ここはカメラスポットだったらしい。






 散歩をするご婦人に、陣屋の事をお伺いしたが、

   「遠くから嫁にきたもんで、良くわからないねぇ」

   「つまらない質問をしてしまってすみませんでした」
 
   「こちらこそ、なーんにも役に立てなくて、ほんとーにごめんね!」

 と、明るく笑顔で返されたことで、ヤブコキの疲れが吹き飛んでしまった。





 
因みに、この陣屋は森田太田原氏により明治まで存続したそうである。

                  
(小塙(館)コンプリート)



放下僧(館)sk  位置(マピオンへのリンク)

放下僧(館)  2012〜3冬第14弾 2013/02/03

 地元の案内板も”放下僧(館)”と称しているため、名称はそのままとした。

                      

 放下僧は、「ほうか(が)そう」 と読むのらしい。

 その意味は案内板によると @財産を投げだし修行をする僧、A仏門に入っているのに、芸事に明け暮れる僧
 と、大きく意味合いは2分している。
                      


 聞きなれない言葉だったので「放下僧」で検索してみると、なんと、能の世界では有名な演目らしい

 演目の内容は、

 室町の頃、下野の国に住んでいた牧野左衛門勝重”なる人物が殺された。
 その息子たちは、苦労して仇を探し出し、仇討をするわけだが、
 その時に”放下僧”に扮し、スキを狙って目的を果たす、という内容。

 城跡の看板の人物名と、能に出てくる登場人物は一致しており、まさに、この場所が牧野氏の城と比定されているわけだ。

              

    でも、

  どうしてココなんだろ・・・・?? という所までは、踏み込めてない。


                 


  
  
 【解説】
           

       さて、 

       ここを何の疑いもなく城跡だと考えて、あたりを探ってみるものの、はっきりした遺構は見当ら無い。

                


             ◆郭内の現状
             

       強いて言えば、畑の段差が堀の残骸であったのか??という感じ。

                ◆段差?
                    

       畑で作業している方にも、城跡に行かせていただく許可は得たものの、
       それ以外の所は「???」という感じで、情報は無い。




       しかし、なにしろ郭の廻りが急峻な断崖となっている。
       陸続きを堀り切れば、結構な要害となるのであるが・・・・・


      
果たして、ほんとに城だったのであろうか・・・・?。


                ◆3方を囲う断崖
                

                     (放下(館)コンプリート)





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