2019




那須烏山市
  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
  

下川井城 小志鳥城 上川井城 新地城sk 森田城sk
塙城sk 神長北要害sk 神長南要害sk 大木須城sk




大木須城sk位置(マピオンへのリンク)

 

 佐竹への警戒か? 2012〜13年度第5陣   2012/12/16
 
最近、一日では終わらない城ばかり攻めている。
ここで、一日でキッチリ見れる城に行きたいと考えていたら、烏山市の大木須城が目に飛び込んできた。

本HPのお客様”しぼれ”さんの「城郭では?」と投稿された山にも近いし、ダブルヘッダーでチャレンジしてみることにした。



 

 大木須の村落は、烏山市街から東へ5〜6km東にある。
 地形図上で見ると山塊の中に、鼻のような形をした谷間が見える。
 鼻の両側の谷を南北に小木須川・木須川が流れ、鼻の最南端で合流する。
 大木須城は、そのような不思議な地形の中にある。
     
 さて管理人は、城の南を走る県道に駐車。
 写真正面が、目指す大木須城になる。

 

 



この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。
(承認番号 平24情複、 第581号)」













 
  【解説】


  当城には、山頂までの明確な道はない。
  車を置いた正面の谷あいから直登で山に取りつくしかないがあ、迷うことなく10分ほどで、平らな山頂にでる。

  





山頂には、小さな神社の祠がある。

祠前に虎口のような開口があるが、
これは、この祠へのルートとみた。
よく観察すると、麓からの参拝道が続いているからだ。





   さあ、いよいよ調査開始!

 
 

主郭は加工が甘く、
明快な切岸がほとんど観察できない。



   それでも、主郭の北には2重堀が存在する。
   ただし、かなり埋まってしまっているようだ。

   
   
                                 ◆マウスを乗せよう




     



  2重堀を見上げる。
  堀は肉眼だと感じがわかるのだが、
  写真だと、どうも感じが出ない。










 


 2重堀を東に向かって撮影したもの。
 その甘さがわかる。











 
 さて、
 当城で一番城らしいのは最外郭の堀である。

 深さは2mほどで、
 主郭の2重堀よりは、遥かに残存状況が良い。






 




最外郭の壁は城の中でも、一番。
ここからは、j完全城外。
当城は山頂部のみの縄張りと判断した。





 


さて、
城の東側の山腹に、主郭から最外郭へ続く道が観察できる。
(青線)
この道は、はっきりと最北の堀切下で止まっている。
後世の道なら、このような形にならないだろう。

よって、この道は往時からの城内の連絡路と考えた。
城内兵は、この道を使って、城を行き来していたのではなかろうか。



また、神社への参拝道と思われる道を
赤線で示した。
東尾根に取り付くところが縦堀状になっているが、これは道による崩れだろう。
積極的に尾根を潰している縦堀とは思えない。











  大木須城は、”城郭”というよりは、”監視所”のようなイメージの方が強い。
  当地を治めていた「木須氏」は那須氏の系列である。
  このようなクソ田舎(地元の方には失礼だが)に、「何の用事があって城を作るんだ?」と聴きたくなる。
  周辺は谷戸も狭く、農産物の生産量はあまり期待できない。

                     

  「どうしてここに城を作ったのか」という命題に対し、無理くり答えるとするならば、
   那須氏領地の最前線に・・・つまり、佐竹氏を警戒して当城を配置したかった、というべきか。




                     
(大木須城コンプリート)


   

下川井城下川井字東 位置(マピオンへのリンク)


 copyright.2005 masaki
【解説】
大きな2つの郭が谷を挟む。
谷の中には、両袖から延びる堀が規格化された曲輪を形成する。

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小志鳥城・志鳥字小志鳥 位置(マピオンへのリンク)


copyright.2005 masaki
【解説】
公園化しており、見やすいし、すこぶる残存状況良し。
主郭は馬出しを大きな横矢が狙う。
馬出しからは、木橋で外部に渡っていたと考えられる。
西側の開口周りは、破壊の感が否めない。
東側の張り出し部と同様、出っ張りに沿って堀が回っていたか、
それとも、展望台造成時の全くの作り物かもしれない。

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上川井城sk 位置(マピオンへのリンク


copyright.2005 masaki
【解説】
かつて、那須氏の合戦が当地であったとされる。
現在は、半分が耕作で破壊されている。

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新地城sk 位置(マピオンへのリンク)


copyright.2005 masaki
【解説】
川の縁崖に存在する。
横矢がりが多数見られ、近隣にも、似たような居館が存在しない事から、
発想としてはかなり新しい縄張りである。
※2005の中世城郭研究の松岡氏の論文を読んで、
戦闘意識の薄れるイメージの『館』という呼称はやめ、
『新地城』とした。

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森田城sk 位置(マピオンへのリンク)


copyright. 2006 masaki
下記URLの航空写真に主郭の輪郭がくっきりと写っています。
国土交通省ウェブマッピングシステム
【解説】
森田城はすごい巨大な城を想像していた。
しかし調査してみると、山頂の大きな主郭を主軸として、
その周りは防御施設に徹する造りになっていることがわかった。

注目すべきは、下図に示した主郭西面の虎口であろう。
ここは土塁と空堀によって狭められた赤線の導線を作っている。
これを屈折させることにより、緑矢印のように、
主郭横矢や主郭側の壁上から監視できるようにしている。

copyright. 2006 masaki
さらに遺構を観察してみよう。

良く見ると、主郭周りに広がる防御施設(空堀・土塁・縦堀)は、主郭の北・西・南に強固な構えを持っている。
図に、大まかに堀のラインを引いてみた。

とりわけ芳朝寺のある西面は緩やかな斜面のため、防備が固くなる。
巨大な縦堀を落とし、斜面を潰している。

反面、東面は防備が緩やかである。
これは、東面の直下が川であることから敵の進入が困難と考えられることと、もともとの斜面が急だからと考えられる。

j城外から繋がる連絡通路(黄緑)は@〜Cが考えられる。



copyright. 2006 masaki


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塙城sk 位置(マピオンへのリンク)


copyright. 2006 masaki
【解説】
舌状台地の先端に位置する。
畑の片隅に土塁が残る。
それに伴い空堀があるようだが、今一明確でないが、
台地東面に近いところは、はっきりしている。

土塁には横矢が掛けられているようで、折りが見られる。


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神長北要害sk

神長北要害に行った

まずは、ゴルフ場のなかの村社神長神社に車を置かせてもらう。
振返ったその対岸の山が、城跡である。


縄張図を作成し、見直してみることにした。

まず、北は完全な遮断の堀切。
ここは、渡れない。
       
               ◆最北の堀切


所謂、大手口は南(図の左手)の谷あいと推測された。

ルーティングを見てみる。
んっつ!これは、なかなか良いぞぉ!

       

青で作成してみたのが、そのルート。
画面左手(南)から主郭にたどりつく@Aがメインのルートであろう。


@を見てみよう。
まず、麓から登ってきた道が
で枝分かれする。
道は空堀の途絶える
の壁でクランクさせられ、蟹バサミ状になった虎口Cを通される。
そして一折れ。
Dから主郭へ。
このことから、図の
Dと書いた曲輪は、機能的に『馬出し』と言えよう。

Aは、Aから分かれて、
の土塁上を渡り、の広い土橋を登り、主郭に至る。
土塁E上を歩くときは、常に主郭の高い壁から、攻撃にさらされる。


Bは唯一の北からのルート。
所謂、搦め手。
同じくFの土橋から主郭に至るのだが、土橋を渡る際、下図の青線ように大きくルートを迂回させられている
直接、土橋に取り付けないのだ。
完全に、図右方向(北方向)は遮断の意識が高いと言うことになる。
           
また、この土橋上は広い。
虎口が図の左手にオフセットしているのは、
紫のドット●で示したが、こちら側のみに防備の壁が備えてあったからではないだろうか。
こうすると、図面右(北)から来た敵は、土橋の存在がわかりづらい。
やはり、図右方向(北方向)は遮断の意識が高い。


ここからは、写真をもう少し、観察してみよう。





虎口
Cを望む。
左手の土塁が
蟹のハサミのような土塁。


 

                              


  土橋は、スロープ状に主郭へ導かれる。     


                      ◆カーソルを上にしてください

 
を渡りきった主郭の虎口。
土塁を切った平入りの虎口である。



主郭西面の堀(縄張図では最上部の堀)。
画面左手が主郭。高い切岸である。



最後にもう一度、主郭北の遮断の堀切
ん〜ん。

気分がいいくらい、
遮断だぁ








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神長南要害sk

北要害の次は神長南要害だ。

天文台の入口に車を置いて、天文台裏の藪に突入。
するとすぐ、遺構が現れる

         ◆天文台施設。つかってるのかな?→
                        
天文台の裏には、の堀が現れる。
ここを越えると
の堀があり、主郭を一巡する。 
                                                      
 

主郭には
虎口@と虎口Aがある。
  
      ◆虎口Aを主郭から見る

虎口Aは土橋で主郭に繋がる。
この形式は北要害の物と似ているといえば似ている
      
              
Eから主郭方向を見る
                                ◆カーソルを上に
 
のさらに外周を一巡する腰曲輪のように見えるが、堀である可能性が高い。
腰曲輪は道のようになって、
の堀切下まで繋がっている。

んっ〜っ!。
これらの遺構から、この2つの城(北・南要害)の意味がなんとなく見えてきたぞぉ〜。!

【所在地】ここで、北要害・南要害の場所を紹介する。
    分かりづらいので、国土地理院の地図を参照させていただいた。


                 
                「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。
                          (承認番号 平24情複、 第141号)」

【考察】

南要害。

この城は主郭を土塁が囲んでいる。。
土塁の配置は北・南・東である。

堀は、現在も認知できる部分としては、北・南・東方面の3方向である。
本論でも書いたが、
Cの帯曲輪は空堀であった可能性が高い。
南は単純に曲輪続きで設けられたものと考えれば、
2重堀となっている北・東方向が、城作りの意識した方向と言えよう。


南要害と烏山城との位置関係は、地図のとおり、当要害の北東方向に烏山城がある。

つまり、南要害は方向的に、烏山城の存在を意識しているものではないだろうか
南要害は、烏山城の属城とか、出城とか述べられる本も多々ある。
しかしながら、遺構か判断するとそれは誤りであり、
属城どころか、対烏山城の施設と考えてよい。

とすれば、当城は那須氏と対抗する一領主の城か、または烏山城を攻めるための拠点(陣城)?ということになる。

次に
北要害
を見てみよう。  「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第141号)」

北要害の最北の堀切は遮断の堀切である。
”外部との連絡を絶つ”という意識が働いている。
主郭回りの堀については、全方位に対して向けられている。
烏山城に付随した施設というよりは、独立してこの城を守ろうという意思が読み取れる。

また、この城の大手口は南の山麓に繋がっている。
つまり、城下は平野部の南側にあったと考えられる。
出城であるならば、敵にさらされやすい南方向に城下を作るであろうか?

当城が烏山城との関連があるとすれば、烏山城から城兵を移動しやすく構築するはずだ。
しかし、北要害の遺構からは、そのような意思は感じられない。                                      
烏山城の出張所というには程遠い?のではないだろうか。

結局、北要害は南要害ほどの意識は汲み取れないが、
この城は
@この地域の独立した領主の城
A烏山城に対抗するために作られた城
2つの可能性を秘めたものといえる。

   つまりは、
       両神長要害は共に烏山城の出先機関(出城)ではなく、
         他の目的で築かれた可能性が非常に高い。

     それは、
        周辺の歴史的背景を合わせてのぞいてみれば、
           きっと明らかになってくるだろう。


    ・・・・・・・・と、思っていた・・
      が、しかし・・・・・・!!!


【謎の堀切遺構】●第1回

ページの掲示板で、
南要害と道路を隔てた対岸の山に
堀切が残るという情報
を頂いた。

情報では堀の位置が、左図の”
堀位置”と書いてある場所だそうだ。

国土地理院の地図上では、県道から”
堀位置”の北に出る道が描かれている。
印の道)
しかし、これがどうにも見つからない。
どこを探しても無いのである。
「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第141号)」国土地理院 烏山 1/25000より抜粋

管理人は、この道を探すのをあきらめた。
そこで、息子と2人、民家の祠に繋がる道を見つけた。
ちょうど車道が90度にカーブするコーナー部で、図の地点である。
管理人は
から東に山を登り始めた。

から山の稜線までは、程なく到着。(赤点線部
ここから、”堀位置”まで南に下ることにする。
地図には南に下る道が、しっかり描かれているが、実際はあまりハッキリしていなかった

しばらく行くと、
     おっつ、おお!あったぞ!  ばーん!
            
たしかに、人間の手が加えられていそうな、堀切遺構に出くわした。
これが、投稿のあった堀であることは言うまでもない。
高さは約7mほどあろうか。
壁が削りだされ、加工されているのは間違いなさそうだ。

ここで管理人は地図を1/25000の地図を広げてみた。
この堀切の位置を確かめるためだ。。

さぁて、どこかな。。。。。。。。。?

どこかな???

             
 んんっつ!!どこだぁ、ここは??


地図にはいろいろな方向の尾根が寄り集まっている。
しかも特徴的な地形がなく、決め手が無いのである。
地図に書いてある道も無い。


管理人の私は、
自分が地図上のどこにいるのか見当が付かなくなっていた。




地図をいくら眺めても、やっぱり場所が良く分からない。
何時になるだろう。
5時には家に帰らなきゃならない・・・・
携帯電話で時間を確かめる。

そのとき、ふと思いついた。

そうだ!!
GPSだぁ!!

筆者はGPS機能付きの携帯電話を所持していた!

◆堀切遺構縁でGPSで位置確認する管理人⇒

                             


堀の縁でGPSで緯度・経度を確かめる。

便利な世の中になったものだ。
こんな山の中でも、どこにいるのか分かるのである。

程なく結果が出た。
   N36°39’ 36.390″
   E140°08’ 29.045″



家にかえって知ることになるが、管理人のいた位置は何のことは無い。

地図の道が描かれている場所、
そのものだったのである。(左図
部)
「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第141号)」
               つまり、

      
この堀切遺構自身が、この道なのであった。(※)

(※)

たしかめ算として、他のブロバイダーの緯度・経度入力ソフトでも、
上記数値は国土地理院地図上の位置と一致する。

情報で頂いた ”
堀位置” では、北緯が2秒ほど異なってしまう事実を確認した。


                        

               ◆GOOGLE検索による結果⇒

【謎の堀切遺構】●第2回

 





堀切遺構の位置はほぼ確定できた。

筆者は
●位置の対岸、に取り付き、さらに南に向かった。

  何か他に遺構があるかもしれない。



  しかし、期待は大きく裏切られた。
     D より南の山は、
 土取りで無残にも全壊していたのである。

   唖然としてしまう管理人。。




「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。
(承認番号 平24情複、 第141号)」






しかし、こんな事をしてても仕方が無い。
気を取り直し、堀切遺構を下り、県道に出てみることにした。 
確かに、今となっては踏跡程度になっているが、かつては道となっていたのが理解できる。




             E地点の県道に出た。
            ここで再びGPS検索を試みる。

N36°39’ 35.004″E140°08’ 24.948″

          2点のGPS測定結果より、
  やはり、堀切遺構が、この道そのものであった事が確定した。
         大したものだ。寸分の狂いも無い

 
地点の緯度、経度測定結果(国土地理院ウォッチズより)
「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第141号)」

ここで南要害を振り返ってみる。
地点は、南要害のすぐ真横になる。
つまり、この道は南要害から監視されるように通じているのである。


               


ここで、ひとつの推論が生まれる。

この堀切遺構であるこの道が、烏山に入る街道だとしたら・・・・
この道をたどれば、烏山城の直下に出るのである。

この
道を、監視するために南要害があるとしたら・・・・

南要害から見れば、堀切遺構のある山は標高が高い....。

              そうだ!

   
南要害から道を監視しやすくするために、人工的に掘り下げたんだ。
   そうすれば、
南要害から堀切遺構の通行人が見やすくなるじゃないか!

          
   「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第141号)」


ちなみに、追跡調査として 左図 C の道もかなり北まで縦走してきた。
しかし、何の遺構も発見できない。

よって、この
堀切遺構の解釈は、いよいよ南要害との相関に絞られるのではなかろうか










 「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。
(承認番号 平24情複、 第141号)」
【謎の堀切遺構】●第3回
先日、たまたま

ホームページ狩野文庫画像データベース http://www2.library.tohoku.ac.jp/kano/kochizu/CJG.html
烏山城下圖 折 一枚 寫本

を眺めていたところ、気になる画像に出くわした。


それが下の図である。
烏山城とその城下、周囲が描かれている。
        
 
      (◆東北大学付属図書館蔵 烏山城下図 折 一枚 寫本  (掲載許可整理番号19−243)


さて、図の@の部分。
烏山城直下の搦め手とも言える神長口から西(図では上方)に道が延びている。
城図の全体的な位置関係から見て、今回の堀切遺構に通じる道(または谷)と判断できる。
しかもその先には、一本
緑色のラインが描かれている。(黄緑矢印部)
この緑色のラインは、他の場所で植え込み?とも逆茂木?ほり?とも取れる場所に描かれており、
いづれにしても、城の遺構を示すことに間違いは無い。

これが今回の堀切遺構を示している可能性もある・・・!?

現県道にあたる道
Aも昔から使われているようだ。



おあっつ!!
そうか。


この
@Aの道の合流地点に南要害がある。。。。
直接、烏山城に繋がる道
@と、城下から繋がる道A

そうかぁ、
この道の合流点を南要害が監視していたんだ!

                 
               「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。
                        (承認番号 平24情複、 第141号)」
【謎の堀切遺構】●第4回

       
 さて、情報を端に発したこの堀切遺構。

      その意味についてもう少し、深堀りしてみよう。





        
          ←◆人知れず残る山中の堀切遺構◆↑



管理人は、本論の【考察】で、南要害の位置付けを

属城どころか、対烏山城の施設と考えてよい

と述べた。
それは、南要害の空堀(2重で回る横堀)が、完全に烏山城方向に厳重に作られていたからである。
南要害の警戒するものは、烏山城方向から攻められる事と考えたわけである。
そこから、対烏山城の施設と想定した。


         

            「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。
            (承認番号 平24情複、 第141号)」
しかし、

この堀切遺構の存在から、当城の警戒意識は
烏山城を意識したものではなく、城跡直下にきている道(街道)にむけられていると推定できる。




では、原点に立ち返り、南要害は、
『烏山城方』か、烏山城方』か?
それを、堀切遺構を含め
、改めて考えていきたいと思う


ここで一旦視点を、烏山から離し、地方の事例を見てみよう。

群馬県の碓氷峠に碓井城がある。
ここは、上野・信濃の国境地帯であり、武田と後北条氏の境界近くに位置していた。

新人物往来社”日本城郭大系”で山崎一氏はこの城を、
@信濃国側・武田氏の城と評価している。
武田側の上野攻略の最前線と考えたのだろう。

これに対し、、城の生活物資の供給は、麓の上野側である坂本宿からしか得られ無いこと、
また、この城に関連する文書から、この城の役目が国外へ出る人への注意をはらっているという事実、
この2点から、
A上野国側・後北条氏の築城と考えるものもある。(※)


つまり、A説では
碓井城は上野側の領主が、国内に向けて築いた城館で、
大名間戦争を想定したものではなく
、東山道と関連した国境の交通に関連する施設
であるというのだ。
また、その規模から、碓井城は国境を維持する城というよりも、
国境を管理する城であるとしている。

碓井城に関しては、上記@Aの果たしてどちらの説が正しいのかはよく分からないが、
管理人は後者Aの上野側の城である説に着目したい。
     
    
◆日本城郭大系4 茨城群馬栃木編 新人物往来社より 
                             山崎 一氏原図

遺構面では、碓井城の、馬出しや深い堀が自国内の街道に向けられているのがわかる。
図では分かりづらいが、南東部分(坂本宿方面=上野国側)の堀が、深く強化されているのである。
A説では、
国境に近い街道を監視するために、空堀、土塁などの縄張配置を自国側街道に向けて強化する事がある

という。

自国側に向けられているわけは、自国内からの異常な人の移動や、物資の移動を監視したものと思われる。


さて、
南要害も街道側に防御意識を強くしている。
それが自国内に向けられているものだとすれば、

南要害は 烏山城方=那須氏の城 ということになるのである。
しかも、境界に近い街道を管理するために置かれた城ということにもなる。


一度は単純な城の縄張強化方向から反烏山勢力の城と考えたものの、この堀切=街道の出現から、全く考えが正反対になってしまった。


(※)斉藤慎一著 中世と動くの領域と城館 吉川弘文館 2002  第3部第2章 境界認識の変化
【謎の堀切遺構】●第5回

A説では、
国境を管理する城と、それ以外に国境を維持する城があるという。


先述の碓井城の例では、後北条氏は管理する城・碓井城東方8kmの地に、国境を維持する城・松井田城を築いたという。
”国境を維持する城”は、より戦術的で大規模なものになるという。
国境を2段構えの城で警護していたということになる。

さて、この南要害を那須氏の境界に近い街道監視の城と考えた。
すると、この南要害のある位置が、那須氏の国境?または何かの結界ということになるが、
本拠の烏山城と1kmほどの距離しか離れていない。

こんな近くに、果たして国境?があったのだろうか?

『那須の戦国時代』では、戦国時代の那須氏の勢力範囲は、西方面では現在の旧南那須町まで至っている。
南要害のさらに西方に、那須氏と宇都宮氏の国境といえる場所があった・・・はずである。

では、なぜ烏山に近い南要害の地に A説の”国境に近い場所に設置される施設” が築かれたのだろう?
国境はもっと西にあるはずである。
しかも両要害の南には一族の森田氏の居城・森田城、北には上川井などの同族の城が存在し、
境目の城などを作らなくても神長地域はサポートできたはずである。

これにはどうも、那須氏自体の結束力の無さが、浮き彫りにされているのでは?という推論が成り立つ。
那須氏は、那須宗隆(あの有名な那須与一)からの多くの分家で構成されている。
15世紀には、同族争いが起きて『上那須』『下那須』に別れ、
那須資持の代で統一されるものの、約100年間分裂したままだった。

統一後も烏山城内で同族間の争いがあり、
永禄9年(1566)には冶武内山の戦いが起こっている。
これは、烏山の西方で展開したと考えられており、神長両要害のすぐそばで行われているのである。。
戦いは那須資胤 vs 佐竹、宇都宮連合軍そして那須氏に反旗をひるがえした大関氏が加わっている。


単純に”戦いが行われた”というが、少し考えてみると、
   神長のような烏山本拠に近いところまで何故、敵に踏み込まれているのであろう?

烏山自体が那須氏の領土の南限に近いこともあげられる。
しかし、神長の地に至るまでには、千本氏や森田氏他にも那須氏の一族郎党がいるはずである。
なのに本拠に近い場所まで敵に踏み込まれてしまうのは、
   やはり 那須氏の結束の悪さが露呈しているからではなかろうか。

現代日本の連立政権のようである。
国会という一つの国家でありながら、中はバラバラ敵同士。


その結束の無さゆえに、本拠に近い神長の地に、”国境を守るような城を作らなければならなかった。”
両要害の位置は、烏山那須氏にとって、非常に安定した自領の境目であったのである。
境目というよりは、むしろ『結界』に近いものであったのではないか?
このように考えれば、神長両要害の意味も分かるような気がするのである。

冒頭で紹介したように、後北条氏は境目を”管理する城として、街道を監視する碓井城”を作り、
”維持する城として、より戦術的な松井田城”を作った。
遺構を良く見てみると、北要害は南要害よりも虎口のルーティングが巧みで、より戦術的なのである。

以上から両要害は、

 一族の不安定な結束ゆえに、那須氏は後北条氏と規模こそ違うものの、
   治安の遵守できる自領土の境界に、南要害を作り街道を監視した。
    それを補佐するような形で、より戦術的な北要害が作られた。

 と筆者は考えるが、皆さんの考えは如何様なものであろうか??????。



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