2019





那珂川町2 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします  

 ◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある


おしろ山sk  石生山sk


おしろ山sk
位置(マピオンへのリンク

那珂川町新城確認第1弾! おしろ山(大内城改め) 2011/12/29
 

 当ホームページのお客様 ”しぼれ” さんからの投稿で、当地を訪れたみた。

 
那珂川町大内字大平に おしろ山 なる山があると言う。

 もちろん、過去にここを”城”として紹介した資料は一つもない。

         おしろ山→お城山→御城山。  

                  もろ
                       城郭関連地名じゃないか!





  【アプローチ】




 車を飛ばし、”おしろ山” の登り口となる、
 那珂川町大内の交差点にやってきた。













 交差点のそばには
 綺麗な川沿いに駐車スペースがあるので、
 ここを利用しよう。
 

 振り向けば、
  この山の先が、目的の ”おしろ山” だ。











    最初に、交差点近くにある ”二渡神社” を目指す。
    ここから尾根伝いに ”おしろ山” に行けるはずだ。 
    
    国道の細長い階段(参道)を登ると、ほどなく小さな社が出迎えてくれる。

         

   
  
   ここからは、地元の方が作った登山道を上がる。

     (申し訳ありません。どなたもいらっしゃらず、お断りもなく登らせていただきました。)

            



丁寧な手作りの道標に従えば、

迷わず”おしろ山”に到達できる。



















                 

              
おしろ山”に着いた。

                     
さて、あたりを見回してみしてみると・・・・・・・・・・・・・

                        








                     
 げっ!
         堀だっっ!!
      

          






            しかも、

            
この堀は、尾根をぐるりと回っているぞ!
          
(浅いけど、間違いなし)


    







             
   土塁もあるぞ!! 


         




                    
    縄張り図を描いて、まとめると・・・・・




またまた

◆上が北

やったね!


基本は単郭の城だが、なかなかの見応え。。
主郭内を帯状にめぐる曲輪は、全て堀の跡かもしれない。
虎口は、2つある。

当地は、馬頭、大子、常陸大宮方面へ抜ける街道の合流点。
築城目的は、これに関するものか?

詳しくくは【解説】にて
しぼれさん、情報ありがとうございました!
今年は色々ありすぎて大変な1年でしたが、おかげさまでいい年末となりました。
来年も、よろしくお願いいたします。
2011/12/29記



【解説】

 実は、長年の堆肥でかなり遺構が埋没してしまっている様だ。
 堀や、土塁もかなりダレてしまっている。
 この城が人々の記憶のかなたに葬り去られ、城としての伝承もなくなってしまった由縁であろう。

 ただし、城であることは100パーセント間違いなく、
 筆者の図面は、多少表現を誇張して書いてあることを先にお断りしておく。


 





まず、城全体を俯瞰してみよう。

まず、ゾウリムシ型の主郭である。
単郭の曲輪で、若干北から南に傾斜している。

主郭のほぼ全周には、帯状の曲輪が回っている。
ひょっすると、
埋もれてしまった堀の跡かもしれない。











   また、かなり肩がダレテしまっているが、
  西面から北面にかけて、土塁がまわっている。
  東面には土塁は見えない。

  このことから、城の警戒方向は、どちらかというと西面と北面となる。

  尾根続きとなる北方向は弱点となるため、土塁や堀を回しているのは理解できる。
  しかし
西面は急傾斜である。
  セオリーから言えば、土塁など必要ないはず・・・

        
 それなのに、何故土塁を西面に巡らす必要があるのだろう?

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・       




 さて、城の特徴を挙げてみよう。


 まず、東西に1個づつある虎口である。

 東側・虎口Aは坂をななめに登らせ、主郭に入る(?)。西側・虎口Bは土塁の切れ目から入る。

     


     
                

 
        よく観察すると、この東西の虎口の間には、主郭内に微妙なマウンドがある。

        非常に微妙なもので、発掘しないとわからないのであるが、
        管理人は、下図の様に虎口を通る人間は、このマウンドにて一折れさせていたのでは?と考えている。

        


 主郭北には、横堀が巡らされている。
 残念ながらかなり埋もれているようであり、堀底深さは50cm程度である。
 

 堀は、主郭北から派生する大きな尾根2つを同時に堀切る。 
 このため、横堀のような形となっている。









              


 主郭周りには、帯状の曲輪が巡っており、かつて、堀であった可能性もある。
  
                        

以上、おしろ山は小さいながらも、コンパクトな城である。

遺構をここまで観察したところで、築城母体を考えてみよう。  

         当城の西には、武茂城がある。
         武茂城主・武茂氏は宇都宮氏を祖とした氏族。
         しかし武茂氏は、元亀頃から茨城方面を治めている佐竹氏側についた。

         『那須の戦国時代』によれば、
         ここ”おしろ山”の北西”大山田城”に、元亀元年(1570)佐竹氏が攻め込んできている。
         ”大山田城”は武茂氏の属城と考えられ、現在確認されている上郷要害or下郷要害と考えられている。
         この戦いで大山田城は佐竹に落ち、これを機に武茂城諸共、佐竹氏に従ったようだ。


         位置を確認してみよう。

                ◆地図マピオンから
         
         おしろ山の南は、現在の茨城県であり、佐竹氏の領地であった。
         つまりは大山田城が佐竹に落ちる前は、おしろ山は武茂と佐竹氏の境界であった事になる。




   今一度、遺構を見てみよう。
   下縄張り図は、上が北となっている。
  
おしろ山の特徴として、急斜面にも関わらず、
西面と北面の土塁がしっかりしていた。

それに対し、東面は緩斜面にも関わらず、防備が手薄と言わざるを得ない。

これは何を意味するのか?

管理人の考えはこうである。
    
『元亀より以前、佐竹氏は武茂との境界に、
   隙あらば武茂領に侵入すべく、この城を作ったのではないか』

ということである。

もちろん境界故、常に相手の行動に対処するために、
自領方向には退路を確保すべく、施設をあまり作らなかった。

それに対し、
敵方向、つまりは武茂・大山田方向には厳重な施設を作った。

これが急斜面にも関わらず、西に土塁を築いた理由であり、
大山田方向に、横堀を回した理由なのでは、と思っている。

   
 

                    (石生山に続く)

※注 上記考察は2012年3月現在のもので、鳴神山、武部の発見で、この後見解が相違してきます                            


石生山sk位置(マピオンへのリンク

那珂川町新城確認第2弾! 石生山 2012/01/17
 
 茂木の千本城へ行った筋肉痛も癒えぬまま、

 中一日で、また山登り。

 当ホームページのお客様 ”しぼれ” さんからの投稿で、当地を訪れた。 


 
先日確認した大内城の峰続き
      
石生山(いしやま) に城郭遺構っぽいものがあると言う。

 もちろん、過去にここを”城”として紹介した資料は一つもない。






          

        で、  行ってみたところ・・・・・


                             ●

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                             ●







         またまた城でした!




 
       那珂川町に、これで新城が2つも見つかったことになる。








 【プロローグ】
目的の石生山は、奇岩”御前岩”の裏山にあたる。◆御前岩








 石生山の頂きには電波塔が立ち、
 そこまで、電信柱が連結する。


 左の写真が、
 山頂まで登って行く電信柱群である。














◆山を登る電信柱





       


 そういう事実もあって 
 当初、山を登る時は、かなりの疑いをもっていた。
 

  資材を運び込んだり、電信柱を打ち込んだり・・・・・ 

  これらの施設作りの工事の際は
  資材置き場や足場となる平坦地が必要になり、
  城郭遺構と類似する加工が、山に施されているのでは?
  と考えていた。


  

◆山に打ち込まれた電信柱


                                   



  
  



  山頂までは、ハッキリしない段をいくつか、通りすぎる。

  しかし、よく見ると段の横に、溝状のものが見える・・


         これは、一体?????






◆山頂までの途中の段










           とにかく、確信の持てぬまま更に上に登り、電波塔の山頂にやってきた。
                             
            ◆山頂電波塔

 






山頂には2つの祠が鎮座する。
調査の無事をお願いして、いざ、調査開始!


















       
山の城跡と決定付けるのは、まず、堀切りだ

       堀の存在は、城が城であるための重要アイテムである。

       電柱が立ち並ぶ尾根は後回しにして、
       とりあえず後世の改変の無さそうな派生する尾根の観察を始めた。

                 









 まず、電波塔から、南東に下る広い尾根を観察。


 削平地が二段ある。
 下の段は、北に向かって長く続く。

 でも、城跡にするには、まだまだ証拠不十分。
 植林で地面がならされる例もあるからだ。















    そこで、北に続く長い峰に従って、山をたどる。
    電波塔や電柱はこちら側には、無い。
    ここに堀があれば、決定的な証拠になるんだろうな〜、と思って歩いていると、
カクンと段差になった。
    降りた両サイドには、
浅い溝が走る。


        
 ”やっぱり、城跡かな?”
          
           そう思いながら、さらに先へ。







                         
    
    すると、

    
カクン
    と今度は大きな段差。















       ◆カクン!と段差が・・・








       
林道で潰れているものの、そこには明らかな溝が観察できる。


              
                      
堀切だ!

       これで、石生山が城であることはほぼ間違いなくなった。

    





     
”しかし曲輪取りがハッキリしない城だなぁ・・・・”と少々不満を持ちながら更に進む。

     しばらくは、何もなくダラダラした平坦な峰が続く。 



                
『さっきの堀切りまでかなぁ〜。』



     と、思った瞬間、
またまたカクンと落ちた・・・・堀切りだ!


        


             こんどは間違いなく・・・・

                 
あれ?


           堀の先に、切り岸が続くぞ・・・・・・・・。

              なんか、あるぞ。

                         
        ●
        ●            
        ●




             ぎょっ!馬出しだ!

                   

                          
               
はい!

           エネルギー充填120%!

          
間違いなく、お城跡でございます。

       石生山殿、疑ってすみませんでした(m(_ _)m)。



       






【解説】

 ◆石生山彩色図

   

 
 

この城跡は、かなり暫定的なところが否めない。
そもそも最高部の主郭に相当する曲輪の加工が、かなり甘い。
電気工事や神社の造作で壊されてしまった可能性も否めない。

        

 いづれにしても、山頂から続く長い峰には、@の曲輪とA馬出し、堀切を除いてハッキリしない。
                 

 それに対し、峰続きから派生する尾根a〜gに対しては、頂部から少し降りたところに狭いが、明らかに曲輪を配している。
 尾根を伝い、侵入する敵を警戒している。


 これらから、この城跡に配置された人数は、さほど多くなかったのではないか?
 この城は警戒を主に、居住するためというイメージが伝わってこない。


  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




             さてこの城の目玉は、なんといってもAの馬出しであろう。
             構造的に、非常に良く考えられている。


  

 構築場所は、北の峰続きが非常に緩くなる場所である。
 この城の弱点部分となる地形である。


 左図で説明すると、
 侵入者がこの緩い尾根を登ってくると、
 縦堀と切岸で右に回される事になる。



 回されている間は、馬出しから常に横矢が掛かる。
 そして、最終的には虎口から一折れして馬出し内部に入る。





  
馬出しには直登する山道が2ヶ所あるが
おそらく後世のものであろう。

右に回されているのが本来の導入路。



 


 
回された道は虎口に到達。
ここで、さらに一折れ。

虎口には土塁が施されており、
何かしらの施設があったと想像できる。


  





 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、この城の築城母体を考えてみよう。
 先に発見した”おしろ山”との位置関係からみても、基本、管理人が考える最有力候補は佐竹氏による築城だ。


戦国時代、烏山〜那珂川町一帯では那須氏、佐竹氏の激戦が繰り広げられた。
佐竹は、何度も烏山・那珂川町方面に出陣を繰り返している。

おしろ山、そしてこの石生山にも、佐竹氏は出陣してきている。
元亀元年(1570)の大山田城への攻撃だ。
それは馬頭の武茂氏とその氏族である大山田氏が、那須氏に属していたからであり、
このあたり一帯が佐竹、那須の境界であったことも示す。
この一帯に、佐竹氏の橋頭堡とも言える城があっても、決しておかしいとは言えないだろう。
”おしろ山”の項では、そのような事実と、”おしろ山”の守備方向から築城母体を佐竹氏と考えた。・・・
@

今一度、石生山の位置を見てみよう。


石生山は、
おしろ山の西700mという近距離にある。
しかも峰続きであり、その標高差から
石生山から”おしろ山”は、内部が丸見えである。

このような位置関係に、
相対する勢力が、城を築くであろうか?


長期戦の陣城という場合を除いて、この距離だと、

石生山と”おしろ山”の築城母体は
同一と考えるのが穏当であろう。


距離と位置関係からすると、”おしろ山”から直接見えない大山田、武茂方面の監視を石生山が行い、”おしろ山”が直接の街道境界監視をしていた様に見える。
有事の際は、距離を利用し互いに連絡を取り合っていたのではないか。 





もう一つ。
その築城技術に目を向けてみよう。

今回特筆したいのは、何と言っても石生山の馬出しである。
縦堀と連動させた虎口のテクニックは、戦国末期に大成する技術的水準の高いものである。

これと同じものを、馬頭の氏族たちが採用しているだろうか?

馬頭を本拠とする武茂氏系の城を見てみると、氏族の中心となる城は、谷津を取り入れた構造が目立つ。
武茂城、下郷要害城、松野南城・・・。
また、幾つか補足で建てられた城を見てみても、石生山の様な馬出し構造を持つ城は無い。・・・
A

   
これら@Aの事実から、管理人は石生山も”おしろ山”も築城母体は佐竹氏と考えた。

さらに上記を裏付ける?話をもう一つ。

どこであったか思い出せないが、こんな話を聞いた事がある。

     ”その土地への侵入者の城跡は、地元民の記憶から忘れられ安い”と言う話だ。

自分の土地に、侵入者に城を作られたらどうであろう?
地元からすれば、平和な土地に厄介な戦争を持ち込む侵入者の城など、ただのお邪魔虫である。
まして、侵入者が新たな領主にでもならなければ、なおさら侵入者の城の記憶は忘れ去られやすい。
地元を愛する人達から見れば、侵入者の城跡の事など、”忘れたい記憶”=嫌な思い出となるのである。
よって、後世への伝承力が落ちると言うわけだ。

この石山も"おしろ山"も、今のところハッキリとした言い伝えがない。
つまりは、侵入者側の城では?ということになる。
大山田領に近いこの土地の侵入者とは、やはり佐竹氏であり、石山もおしろ山も佐竹の城という事なる。

感情的には十分理解できる話なので紹介しておこう。


しかしながら、もちろん、
大山田氏が作った可能性も否めない。
実を言うと、石生山近隣の佐竹の城には、馬出しが見当たらないからである。

 ただし、


ケースA 石生山が佐竹築城で、おしろ山が大山田氏築城の場合

   これは、常識的に無いであろう。石生山は大山田氏に挟み撃ちである。
   現代の常識を当てはめてはいけない気もするが・・・・。

ケースB 石生山が大山田氏で、おしろ山が佐竹氏築城の場合

   Aの築城技術は、大山田氏がたまたま学ぶことができたとしても、
   石生山から丸見えの”おしろ山”の位置に、わざわざ佐竹が城を作るだろうか?

ケースC 石生山も”おしろ山”も大山田氏築城の場合

   佐竹が元亀元年攻撃した『大山田城』は、この石生山なのかもしれない。
   しかし、佐竹氏方向の監視という意味で石生山が作られたとすれば、
   標高の低い”おしろ山”にもわざわざ城が必要であろうか?
   また、どうしても”おしろ山”の守備方向が説明つかない。




以上の観点から、管理人は佐竹氏が石生山の築城母体と考えているが、正直わからないというのが実情である。
そこが歴史の醍醐味でもある。

文献などの資料も無いままの推論に過ぎないが、みなさんの考えはいかがであろうか?

                         (取り急ぎ完了)
  

※上記の考察は2012年3月時点のもので、鳴神山・武部の発見で、この後見解が相違します。
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