2019
那珂川町 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
東戸田城 | 神田城sk | 松野北城sk | 台城sk | 谷田城 |
copyright.2005 masaki |
◆東戸田城全体図 |
copyright.2005 masaki |
◆東戸田城主要部 |
【解説】 主郭全周に堀が回る。 主郭から派生する尾根すべてに、主郭からの堀の派生が連携する。 横矢も多用され、非常に良く考えられた縄張り配置だが、 虎口の発達は”今ひとつ”の感が否めない。 本城は江戸中期まで、戸田氏によって使用されていたとされる。 江戸期というより、やはりもっと中世の匂いのする城である。 |
copyright.2005 masaki |
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【解説】 神田城は那須氏発祥の地とされている。 人家で一部破壊されているものの、良く遺構が残っている。 城の東面は往時から湿地であったようで、堀は築かれていない。 今でもジメジメして、足をとられてしまった。 北側の堀は、湧き水を利用し、沢のようになり、水堀となる。 |
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◆モミジと土塁 | |
◆東面の虎口坂虎口となる。 | |
◆土塁と青空なんとも美しい・・・ |
copyright.2006 masaki |
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【解説】 松野北城には、所謂、畝状縦堀が存在する。 規模の大きいものは、主郭北の西面。 主郭直下から延びる計2本は、山麓まで達する。 この縦堀と連動して、山を半周する腰曲輪も設置している。 主郭東面にも小規模ながら、畝堀が存在する。 栃木県ではこのような、畝堀は珍しい。 あまり、例は無いようだ。 当城は、佐竹に仕えた松野氏の築城。 慶長7年、佐竹の秋田への国替えに伴い松野氏もこれに従った。 だから、慶長期まで存続していた城ということになるのか・・・。 ”佐竹氏が畝堀を多用した”というイメージはあまり湧かない。 虎口の発達もイマイチである。 慶長まで続いた割には、古手の感じがする松野北城だ。 ただ、曲輪間のルート設定は妙に良くわかる城であった。 (H18年1月4日踏査) |
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◆松野北城全景 | |
◆松野北城主郭土塁 |
【解説】 松野北城の東。 田んぼの真ん中に、台城は存在する。 土塁も堀も無いが、正方形状に土壇が存在する。 松野北城同様、松野氏関連の施設である。 解説書によれば、当初松野氏はこの台城を作り、山城に移ったとされている。 私見では、松野城に付随した山麓居館部と見たほうが妥当と考える。 (h18年1月4日踏査) |
※ 追記・・2016/5/9 国土地理院 航空写真1949 はっきり四角四面の居館が分かる |
【解説】 谷田城は民家の背面にあり、場所が非常に分かりづらい。 "高瀬やな"の背後の舌状台地上が城址である。 私有地となっているので、見学には必ず断りを入れよう。 城北方は、民家の庭園になっているため、なおさらである。 遺構は、堀切が一本あるのみで、その他の遺構は見当たらない。 虎口は現在の土塁切れ目で良いだろう。 うっすらと土橋が残る。 土橋手前の土壇は"塚"で、城とは関連がないと地元の方はおっしゃっていた。 築城者などは一切不明らしい。 |
◆空堀現況(↑) ◆空堀、手前は塚(↓) |