2019
鹿沼市7 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
見学不能な城 2015/10/18 |
ネット等の情報で、この城一帯は私有地ということで、見学には、城下、大貫家への断りが必要と書いてある。 そこで、許可を得ようと、お宅へお邪魔した。 しかし、対応してくれた婦人に、 ”猪よけのネットを全山に配置し、どこからも入れない” ということで見学を断られてしまった。 山続きからのアプローチなど、ただ歩いて歩測をするだけで、ご迷惑はおかけしない、と食い下がったのだが、 ”山が荒れて手入れもしてないし・・・・”などと言われ、大層迷惑そうな顔をされるので、仕方なく退散することにした。 確かに自分の土地に、他人が入る事には抵抗があろう。 しかし、30年以上この活動をやっていて、このような扱いを受けた事は、初めてである。 大抵の場合、当方の調査のやり方を話せば、入場を許可してくれる。 この城では、何かあったのだろうか? ま、人それぞれだな。 調査の実態も理解されないまま、このように拒絶されてしまうのは、非常に残念で悲しいことである。 もう、ここに来ることは無いだろう。 たぶん-- |
第①回 なんで、こんな山上に・・・・ 2015/1/7 |
当HPのお客様・ クリヤ氏とは、昨年から城探索の約束をしていたが、 毎回雨に祟られ、なかなか御一緒できないでいた。 そのクリヤ氏と、やっとリベンジが図れたのが、この”上の城”である。 さて、この城は、標高300m、比高150mの山上にある。 『鹿沼市業書7 鹿沼の城と館』では、 縄張り図には、キッチリとした遺構が残っている事が示されている。 結構広い城域かな?一日で終わるかな? ま、いっか。 とにかく行ってみよう! と、さっそく我々は城探検に出かけたのであった。 さて、麓の光厳寺に車をおかせてもらう。 そこからは、結構な尾根を直登する。 ふぅ。 頂上に着いた。 主郭で、記念にクリヤ氏と写真をポチリ。 調査開始。 本日はAM9:30~PM3:00までの調査となった。 結局、この日だけでは全部描ききれなかった。 出来たとこまでを使って、写真を紹介しよう。 ◆現状縄張り図 上の城の山は実に気分が良い。 というのも、植林が少ないからだ。 山は紅葉樹に覆われ、冬枯れで山にたっぷりの日差しが差し込む。 ① まず、主郭枡形。 すごい! 枡形門を別の角度から。 写真向こうから手前の壁で右に折れ、城内に導入している。 枡形門の奥の壁。 ちょっと、わかりづらいかな。 主郭の枡形を城外方向からのぞむ。 写真ではわかりづらいが、手前の壁は全部岩盤。 直接登るには困難を極める。 つまり、ここには木橋が掛かっていたと考えられる。 ② 主郭東と西周りには綺麗な横堀が巡る。 ③主郭北側の状況。 帯状の曲輪が、主郭全周を巡る。 ひょっとしたら、主郭周りは全てが横堀だった可能性もある。 ④主郭南側の曲輪の状況。 何しろ景色がよく、気持ちが良い。 ⑤ さて、主郭北の谷には湧水地がある。 ⑥ここから、谷まで延びる縦堀が存在する。 これ、龍階城に似ているなぁ。 縦堀を下から上に臨む。 このあたりは杉林の植林で、林の中がすこぶる暗い。 写真がボケているが、綺麗に掘っている。 ●ルートの考察 さて、出来たところまででルートを考えよう。 筆者が考えるに、主郭への入口は一箇所。 木橋を使った枡形門だ。 北からの通路はオレンジ色。 途中で緑色と2方向に分かれるが、 最終的に枡形に集結する。 南と東からは青のルート。 やはり、枡形門に集結する。 西からのルートは基本無いと考える。 主郭西側は三重堀となっており、 完全封鎖していたと考える方が妥当だ。 また、今回描けなかったが、 主郭西側には堀切を主体とした施設が続く。 このことからも、西の曲輪群は普段使わず、 有事の時だけ人を配置する物だったのでは? と筆者は考えている。 (※後述で少し見解がかわりました2015/04/05) (上の城 第②回に続く) |
第②回 完結へ ・・・ 2015/03/14 |
仕事とプライベートで、しばらく行けなかった城見学。 今日は、家族に同意を得て、上南摩・上の城を仕上げにやってきた。 時刻は、朝7:30 光厳寺さんに車を置かせていただき、山を直登した。 午前8:30 山頂に到着し、前回の修正調査から始める。 いつものように、この山は、本当に広葉樹が多く、見晴らしが良い 主郭直下の虎口を写真に収める。 主郭の北部分を除き、 だいたい山全体が、このような雰囲気。 明るくて、気持ちが良い。 ⑦ さて、修正調査の初めは、この縦堀から。 人によっては”崩れ”と観るかもしれないが、 それだと、なぜここだけ溝状にえぐられているいるかが説明できない。 下ってみると、溝は結構長く続き、一つ曲輪を配し無くなっている。 やはり縦堀で良いであろう。 さて、本日のメインは、主郭北西に延びる、主尾根の探索。 ”「鹿沼の城と館」の先行図では、未整形な曲輪と堀切が連続している。 時間があれば、先行図記載の堀切のさらに先の峰を歩いてみよう。 ⑧ 写真は主郭から2重堀を隔てた、最初にある副郭。 頂部は殆ど無整形。 しかし、なぜか北側に向けてのみ壁を作り、横矢を掛けている。 横矢に沿って、下段に細い曲輪を配する。 一部、堀状になっているが、主郭に近いところで収束して無くなってしまう。 後述するが、筆者はこれが、主郭まで導くルートの跡なのでは?と思っている。 ◆マウスを乗せよう そこから先は、浅い堀切を超えると、尾根が急に登りだす。 普通の城であれば、先ほどの浅い堀切で終わりのはずなのに、 尾根を登りきったその頂点に、もう一本堀切がある。 この曲輪も奇妙で、なぜか北側だけ壁を作っている。 壁は一番南側で、横矢状にクランクする。 壁の下には、やはり細い曲輪が走る。 ただ、前段の曲輪と違うのは、壁のクランクでどん突きとなっていることだ。 どんつきの先は自然地形。 単純に言ってしまえば横矢だろうが、築城者の意図が今ひとつわからない。 ⑨ さて、下の写真は最北端の堀切である。 この城の堀切は、最外郭に行くに従い規模がちいさくなる。 ここは、現在1mほどの深さとなる。 しかし、土塁も伴っていたようだ。 この城の堀切の特徴として、 端末が、どれもこれも ”縦堀”というほど、 加工されていない事だ。 文献に出てくる”南摩城”というのは、滝尾山も含め、どこを指すのかわからないそうである。 しかしながら戦国期、この南摩一帯は皆川氏の所領であり、南摩氏がこの城の城主であった。 皆川城は、堀、土塁を駆使した戦国時代の城のモデルケースとなる城である。 皆川城と、この南摩の縄張りは、同じ匂いがする。 そう思うのは、私だけであろうか。 (上の城 解説に続く) |
まとめ/完結 ・・・ 2015/04/04 |
【解説】 それでは今までの写真を、彩色図で改めて解説しよう。 ◆主郭周り 主郭への導入は典型的な枡形門。 手前の土塁から木橋を渡し、 主郭内部で、南にクランクさせていた。 ◆マウスを乗せよう 主郭の木橋下、綺麗な空堀。 実に爽快である 主郭北側の状況。 帯状の曲輪が、主郭全周を巡る。 ひょっとしたら、主郭周りは全て横堀だった可能性もある。 主郭南側の帯状の曲輪。 狭い幅の曲輪が半周する。 こちらもひょっとすると堀の可能性がある。 ここから、南山麓の景色は抜群に良く、大変気持ちが良い。 こちら側も、 幅2mほどの帯状の曲輪 が回る。 ◆主郭南 さて、主郭から南に下ってみよう。 主郭からは、明瞭な城道が延びる この城の特徴(と言うほどでもないかもしれないが)として、 道そばに縦堀を配置し、通行を妨げている様に見える。 これもその一つであるが、人によっては ”崩れ”と見る方もいるであろう。 しかし、よく考えてみれば、何故でここだけ崩れるのだろうか? 周りは、似たような斜面しかなく、沢が湧いているわけでもない。 しかも、この縦堀の場合で言うと、きれいに同じ幅で山を下り、曲輪を介し止まっている これって、ホント「崩れ」でいいの? ....ということで、管理人は意図的な人工物と判断し、”縦堀”と判断している。 道幅を狭めるように、縦堀を配している。 ◆主郭北 主郭北の遺構としては、本城の水の手を紹介したい。 この城の標高は高く、人が在住するにはとても不便。 冒頭の表題でも示したように「なんでこんな山上に!?」と思ったわけだ。 しかしながら、この山の北斜面には水が湧いているのだ。 水があれば、在城は可能であろう。 管理人の調査時は「鹿沼の城と館」の縄張り図で示された場所より西側に湧水地があった。 猪が飲みに来た跡も確認できる。(熊かも........?) 勿論、「鹿沼の城と館」で”水の手”と示された場所もジメジメしており、 そこからは、谷まで続く長い縦堀が確認できる。 龍階城にもあったように、この辺りでは、谷まで落ちる長距離縦堀が存在する。 この遺構には一体、どのような意味があるのだろうか? 下の写真は縦堀を上下に臨んだものだが、杉林の植林ですこぶる暗く写真がボケてしまった。 しかし、綺麗に掘られている雰囲気は伝わると思う。 ◆上を見た ◆下を見た ◆主郭西の峯続き 主郭の西方を見てみよう。 主郭西部には三重の堀切がある。 写真が無くて申し訳ないが、この堀切の切岸は高く、 ここに人を往来させる事は難しい。 現在、薄い山道が堀切を横断するように付いているが、 ”ここを往時も使っていた”というには、いささか無理がある。 当所はあくまで ”遮断の堀切”として、 人は通行させなかったと考える方が穏当ではなかろうか。 それを前提に、以下に解説を続けたい。 三重の堀切の西側は、すこぶる曲輪が中途半端になるが、4つの堀切が残る。 それらを❶~❹とナンバリングした。 最初は主郭の隣にある堀切❶である。 この堀の切岸は、高さ1.5mのほどのものである。 特徴的なのは、その北面に回り込んだところに、横矢が掛かるようになっている事だ。 これは何故であろう? ◆マウスを乗せよう 管理人がピン!ときたのは、堀内部を人に歩かせていたからではなかろうか?ということ。 ルートとして使っているとなると、道途中の横矢が非常に有効に見えてくる。 ❶の堀は、北側にまわり込んだ後、うっすらと消えていくが、その先が主郭三重堀切に繋がる。 現在明確な道は残っていないものの、下図のように、道が三重堀切に降りていた可能性がある。 赤点線で示したように、❶の堀切の曲輪からは堀底を人に歩かせ、その先で三重堀切に降ろし、 さらに下って、主郭部へアプローチする。 いささか遠まわしで面倒なルートだが、攻撃面では極めて有利だ。 次に目を向けたいのは❸の堀切である。 ちょっと破壊されている感が否めないが、 食い違いの虎口と考える。 堀が互い違いに食い込み、 曲輪へのルートが曲げられているように見えるのだ。 最後に、❹の堀切である。 現在の切岸高さは、1mあるかないかであるが、明らかに堀切である。 1mと言っても、往時は2m以上あったに違いない。 ここから西は自然地形となる。 以上、主郭西の曲輪を見てきたが、 特徴的なのは、堀切のみしっかりしており、曲輪が非常に曖昧なのが特徴と言える。 また、全体的にも言えるのだが、この城の堀切は、縦堀を伴わないことだ。 最後に、この城へのルートを色分けして掲載してみよう。 これを見ると、主郭へのルートは必要以上に遠回りさせている。 遠回りさせることで、攻撃のチャンスを作り出す効果を狙ったのだろう。 【まとめ】 第一回でも書いたが、 文献に出てくる”南摩城”というのは、滝尾山も含め、どこを指すのかわからないそうである。 しかしながら戦国期、この南摩一帯は皆川氏の所領であり、その配下である南摩氏が城主であった。 皆川氏の本拠・皆川城といえば、技巧的で、堀・土塁を駆使したもの凄い土木量の中世城郭だ。 そして、当地域の城の土木量もものすごい。 また、滝尾山、そして少し離れるが、久我、龍階、金ケ沢など、 南摩周辺の城は、県内トップクラスの技巧的な縄張りである。 鹿沼も広いのに、どうして南摩には素晴らしい遺構が集中するのであろう? 2重、3重の堀切や、食い違い、枡形、横矢、引橋構造・・・・。 管理人にはなぜか、南摩周辺の城の縄張りが、皆川城と同じ匂いがするのである。 (上の城・以上) |