鹿沼市6  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします

①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある

加園城sk


    

加園城sk 位置マピオンのリンク

おそらく Vol.1/3  石灰採掘で半減した城 2014/12/21       
 

 加園城は、石灰採掘現場にある。
 このあたりは、石灰採掘が盛んであり、近くの独鈷山城は頂上部がなくなってしまった

 この加園城にも、石灰工場があり、山が大半削られてしまったようである。
 行政の指導があって、採掘が止まったのかどうかは知らないが、
 主郭近辺はなんとか旧状を保っているという状態だ。

        

 
     よって、遺構はよく残るものの、城下からの導入など、その全貌を掴むのは難しそうだ。


  

 




  
では、その遺構の写真を公開しよう


    ◆マウスを乗せよう 
  まず、主郭の入り口は、木橋である。




   ◆マウスを乗せよう。 
  主郭内にある井戸。石で囲まれている。

 


  その井戸周りの土塁。南に向かって




  その土塁上から、流れに沿って撮る。




  井戸まわりの土塁は、北に向かうほど高くなる




  土塁から、主郭外周の縦堀を臨む




  主郭まわりの堀。2の郭に近い部分




 主郭まわりの土塁




 主郭まわりの堀




 舞台は2の郭へ。南に向け傾斜する。




 2の郭から外部へ。綺麗な土橋だ。




 2の郭外部から2の郭へ。土橋を臨む。


                 
おそらく Vol.2/3   石灰採掘で半減した城 2015/1/4       
 

 2日目。
 今回は、主郭西部分を完成させようということで出かけてみた。
 

            


 調査開始時刻は10:30。
 暗くなるのが早いので、PM2:30まで、調査をおこなった。
 その途中経過縄張り図が以下である。
           
            

 
 
 さて、調査してわかったのだが、結構この城には石が使われている。

 主郭の井戸周りもそうであったが、主郭と西郭最高部を繋ぐ部分(
a部分)にも石が使われている。
 
 写真は壁側面であるが、大ぶりな石が連続的に積まれているようだ。。
  





 またその土塁上にも石の表面が見えており、しかも鍵型に曲がっているのが観察できる。
 是非、このあたりは発掘してもらいたい。

             
★マウスを乗せよう
            








 
西郭へ続くb部分の土橋。
               






 西郭最高部には、高さ3mほどの土塁が築かれている。(C部分
            





  西郭最高部から、下位につながる曲輪。(d部分
  その先には__________

            






     
____f部に、綺麗に規格化された凸型の曲輪が残る。


   パノラマ形式で写真を撮ってみた。


   
  


                                   
 
 Vol.3/3 図面完成・石灰採掘で半減した城 2015/1/25
 
 三回の調査で、山上の図面がやっと完成した。
 本当は城下にも城郭関連地名があり、そこも調査しなければならないのだが、かなり破壊が進んでいる。
 また、鹿沼市でも調査しているが、遺構は殆ど無いようである。。
 
     


  では、上記の現地調査図を彩色し、今までのプロセス調査の写真をすべて解説してみよう。       

         






 総まとめ  石灰採掘で半減した城 2015/2/7
   

  上記の現地縄張り図を彩色すると、全体的な俯瞰は以下の通りになる。


   
  
 



主郭























































































































































































































































 
【解説】




 では、まず主郭周りから見てみよう。

 
 

     



主郭へのは入り口は、言うまでもなく橋である。
高さを両曲輪で揃えている。






  ◆マウスを乗せよう              
            






 
   



主郭内部には、井戸があった。
観察すると、井戸周りの石組みが見える。






◆マウスを乗せよう。             
            






 

 

その井戸近傍の主郭土塁。
南に向かってしっかり延びる








           







    


 


その土塁上から、土塁の流れに沿って撮る。









           











主郭の土塁は、北に向かうほど高くなる








           








  

主郭から、下を見下ろす。
縦堀状の開口が見える。
他の解説書では、ここを『縦堀』としているが、
私見は異なる。

ここは、
直登させる『虎口』である。


理由は、下段”主郭周り”の項で示そう。




               

 
主郭
まわり

 
 続いて、主郭まわりの施設を見てみよう。


  


主郭を囲む堀。
二の郭に近い部分から撮影。
一番手前の堀内には、微妙は折りが見られる。





      










主郭を囲うの土塁

高さもしっかりした土塁が、主郭を巡る。








       







  



主郭を囲う堀を、堀の内部から。










       








  
さて、下の写真をご覧頂こう。

主郭の解説の時にも述べたが、
縦堀状の遺構を下から見上げたものである。

鹿沼市の調査や、他のHPなどではここを『縦堀』と評価する。

しかし、管理人は意見が異なる。




  ◆大きく開口の広がる縦堀状の遺構
         



ここの縦堀状の遺構は、他の城にもある縦堀とちょっとイメージが異なる
縦堀は本来は敵の斜面移動を妨害するものである。

しかし、

 ①写真のように開口が広く、防御ではなく、”どうぞいらっしゃい”という声が聞こえるようだ。

 ②上がりきったところに、矢倉台がある。
 これは、 登ってくるときの敵の頭上攻撃をねらったものだ。

 ③また、極めつけに、主郭にも矢倉台があり、登ってくる敵を 正面攻撃ができる。
 
 ④縦堀だとしたら、主郭周りに何故この場所だけにあって、他にないのだろうか?


よって、管理人は、この遺構は単なる”縦堀”ではない。

         『虎口』として直登させ、その敵を狙った施設と判断した。




また、上記推測に伴い、管理人は導入路の考え方も
鹿沼市の調査、他のHPと異なる。
これらは、
赤のルート②を導入路とし、
二の郭へ向かうとしている。

 
これは誤りでなかろうか?

そもそも
と書いてある曲輪へ入るには
の曲輪の段差を乗り越えなければならず、
しっかりした土塁の開口も無い。

よって
 管理人はを正規ルートと考える。

こちらの方が、
矢印のように、
あちこちから横矢の睨みを効かせることができる。
矢倉台からの弓射も可能である。


二の郭への導入路は
青のルートであろう。
それを示すように
が睨みを効かせる。




 
二の郭

     


 


舞台を2の郭へ移そう。


この曲輪の根元は、南に向け傾斜する。
これは、地山の加工を避けたのと、
主郭へ掛ける橋のレベルを揃えるためだ







       









  

二の郭から外部へ。

ここは、綺麗な土橋だ。
その先は、角馬出しとなっている。

美しい。

これだけ典型的な遺構は
栃木県の中世城館では珍しいのではなかろうか。





      










  
馬出し側から、二の郭を望んだところ。

ほんと、美しい。






  



          



西郭へ 
 

さて、次は西郭へ向かう。


 
主郭部から西郭へ向かう土橋状の通路側面には、石が貼られていた可能性がある。
表面に、石がはみ出している。












  
 
土橋状の表面にも、石が配列されているようだ。
写真はL字に曲がっていることが判る。

ぜひ、発掘してもらいたいところだ。

★マウスを乗せよう          












土橋状の土塁は、主要部ろ西郭を繋ぐ。






                     

                 










西郭には、大きな土塁が半周する。







                    
                 












西郭から、北側に回り込むと・・・・











 


線対称に土塁を配した曲輪が、姿を現す。
写真は、そこの土塁上からに西郭を望んだところ。








         

北へ   

次に唯一の尾根続きの北へ向かう。

ここは、2本の堀切で区切るが、思いのほか縦堀となってない。
尾根上で堀が収束している。

写真は、最北部の堀切。
土塁も低く、堀も甘い。
後世に改変された可能性も否めないが、
あまり、敵の侵入を想定していなかったのかもしれない・


                 

東郭     
最後に東郭を紹介したい。



東郭へは、二の郭の南の曲輪から下るようになっている。

左図にも示したが、
ここには、土塁に向かって橋が掛けられていた可能性がある。
そうすることにより、残存している矢倉台が効果的だ。

ルートとしては、東郭への道を上がって土塁に取り付き、
橋を渡って、城内へ入るルートが考えられる。





             









 さて、東郭への道を下ってみると、その先に縦堀が見えてくる。
 縦堀は主郭土塁コーナーから派生する尾根を潰すように作られている。
 斜面下方でクランクし、『東郭』を形成する。


さて、問題なのは、この東郭の下である。

確かに図中の東郭縦堀は、
自信を持って城のものであると判断できる。
しかし
で囲んだところは、一応城の遺構として描いたものの
クエスチョン??である。

そのような気持ちにさせるのは、
この周辺に、作業道が縦横無尽に走り込んでいるからだ。
なぜ、このあたりに作業道が多いのだろうか・・・

城の正面と西郭周辺は石灰採掘で、大きく変貌している。
しかし、東郭にはその被害が及んでいない。
ということは、この東郭周辺は、
石灰が取れにくい or 取りにくい場所だったのではなかろうか?

     では、それはどうしてわかったか?

以下は、まったくもって筆者の想像であるが、
で囲んだところは、このあたりを削り込み、
所謂『石灰の試掘』をしたのではなかろうか?

ひょっとすると、○内で土塁・堀と表現したところも、
重機の削り込みの跡かもしれない。

それとも茂木の山で経験した、”窯の跡”であろうか??





     とにかく、なにが原因かわからないが
       
山を右往左往する林道跡が、近代破壊を物語っているような気がしてならない。





  


    この城は、戦国期に渡邉某が築き、その情勢において従属を変え、どっちつかずの城主となった。
    コウモリ的な存在にも関わらず、この城には馬出しなど高度な築城技術が駆使されている。
    この技術は、どこから仕入れたものなのか・・・・ 


    後世の石灰採掘が、この城を大きく変貌させた。
    それは縄張りだけでなく、その歴史までも深く削り取ってしまったような気がしてならない。



                           (加園城 コンプリート)


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