2019
鹿沼市5 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
龍階城sk |
龍階城sk 位置マピオンのリンク
第1章 縄張りは城を語るか? 2014/11/16、12/9 |
龍階城は、標高408.5の三角点上の山にある。 管理人は、久我城、金ケ沢城を見た時点で、ある推論を立てていた。 縄張りの示す方向と、三つの城の位置関係から、『三城は同一氏族の築城』と考たのだ。 しかしながら 「鹿沼の城と館(鹿沼市業書7)」は、 ”金ケ沢城と龍階城は対峙し、 龍階城はその時の陣城であった” と見ており、管理人とは全く違う考え。。 だったら、行ってみようじゃないの!龍階城! 「縄張りが、白黒ハッキリさせてくれるに違いない」 管理人は早速現地に飛んだ。 ◆国土地理院地図 管理人の予測では、 ① 山地に選地している金ケ沢と龍階の築城者が同じであれば、 なにかしら”城の構造に共通点が見い出せるはず” そこから、久我・金ケ沢・龍階城の関係も、自ずとわかってくるに違いない。 ② 標高500mの金ケ沢城から、標高400mの龍階城は丸見えである。 もし、ここが金ケ沢に対する陣城であるとしたら、家の中を物色されているも同然。 それは戦場の常識では考えられない。 そこで、あたりを見渡してみると、 金ケ沢の標高に匹敵する良さげな山が、龍階城の背後にある事に着目した(図中?部) ここに、金ケ沢に対する出城のようなものがあっても、おかしくないのでは? 行って確かめる必要がありそうだ。 ■国土地理院地図 天気良い休日。 この城には2回訪れているのだが、両日ともに上々であった。 麓から龍階城を望む ◆2日間の調査結果の現地縄張り図 山の登り降りが激しくて、現地図はボロボロになりかけた。 |
【解説】 ではまず、彩色図を使い、龍階城の縄張りを説明しよう。 この山に入るには、長いだらだらとした東に延びる尾根がオススメである。(図中、かつての堀跡かの先) 開始から、20分ほどで、主郭部に到達する。 標高、約400mだ。 早速、堀切が私を迎え入れてくれた。 下の写真は、主郭北、一本目の堀切。 仮に1の堀としよう。 幅は狭いが、深さもあってカッチリと残る。 ここから北に、堀切がほぼ等間隔に配置される。 主郭北の曲輪内部 主郭北の曲輪側面には、横堀(?)が回る。 ただ、この横堀がすこぶる狭い。 堀にしては、ちょっと、っていう感じである。 写真はA4の本であるが、 その狭さがお分かりになるだろう。 所謂、『武者隠し』的な物なのか? 写真は2の堀 ここから先は、曲輪の加工が甘くなる。 さらに、その先の3の堀 やはり、規模は大きなものでないが 綺麗に残っている。 さらにその先の4の堀 この堀は、2つの尾根に跨り、通行を封鎖している。 ちなみにこの先に遺構はなく、城外である。 さて、今度は主郭より西に向ってみよう。 そして、なんといっても、これ! すんごくねー。 別の角度から。 綺麗に写真にも写る。 堀に降りて、堀切を望む。 中仕切りの土塁はあまり長くない。 しかし、ここから不思議なくらい長大な縦堀が、南斜面に続くのだ。 この縦堀は、山下に向かうに従い、どんどん深くなる。 沢になっているわけでもなさそうだ。 状況から、水の流れで深くなったとは、考えにくい。 当時のオリジナルで、これだけのものが築かれたと考える。 そうすると、もんのすごい土木量だ。 結局、この縦堀は、ほぼ麓まで続いていた 。 おかげで管理人は、この山をもう一度登りなおすハメに。。。 メチャ疲れる。 ◆休憩ついでに主郭下の土塁でポチッと記念。 さて、この城の城域は、北と西ははっきりしている。 では、東の城域はどうであろう? 「鹿沼の城と館(鹿沼市業書7)」では、筆者縄張り図の『土橋を伴う堀切』までとしているようである。 しかし、管理人は全体図の『かつての堀跡か』と描いてある所までと考えている。 現在は、尾根を跨ぐ細長い曲輪であるが、かつての堀跡ではなかろうか。 尾根を跨ぐ堀であれば、『4の堀』と形態は一緒である。 この周辺の曲輪は、確かにはっきりしない。 しかし、『土橋を伴う堀切』周辺の曲輪と、『かつての堀跡か』の周辺の曲輪の形態はどちらも曖昧である。 よって、城外と城内を明確に分ける決定打にならないのでは?と思ったのである。 |
第2章 背後の山の調査 2014/12/9 |
さて、先にも述べたが、 この城が金ケ沢城と対峙しているのであれば、龍階城は金ケ沢城から丸見えだ。 もし、龍階城と金ケ沢城が対峙していたとすれば、これは死活問題。 それに対抗するためには、標高に対応する施設が必要だったと考える。 となれば、龍階城の背後の山で、 金ケ沢城と標高の同じくらいの山が怪しい。 ここに、城郭遺構のある可能性がある! となると、まず怪しいのは、ここ。(位置図を参考に アプリはヤマヤマ) さっそく、登ってみよう!! 登ってきたのが下の写真。 なにも無い・・・・・・。 ”自然地形だな。こりゃ。” でも、とても眺めがよい所だ。 ”じゃあ、もうちょっと、上かな?” 管理人は、さらに上を目指し足を進める。 途中、金ケ沢城が、目の前になる。 下写真正面の一段低い、山だ。 目的地到着。 でも、山の上は自然地形。 ダラットした感じで、全く人工の匂いがしない。 やはり、なにも無い 私の勘はハズレた。 さらに、その先には行く気になれなかった・・・・・・・ ◆山の状況 |
エピローグ 再び縄張りは城を語るか? 2014/12/29 |
【解説】 『縄張りは城を語るか?』ということで、ここまで引っ張ってきたわけだが、 結果をまとめてみよう。 まず、龍階城と金ケ沢が同族の築城の場合、同じ山城であれば、何かしらその構造は似通ってくるはずだ。 しかし、直感的に、龍階と金ケ沢は明らかに手が違う。 曲輪の規模、堀切の規模が、金ケ沢は大胆だ。 虎口の使い方も、金ケ沢の方がはっきりしている。 縦堀を巧みに使い、敵兵を誘導する手も、龍階には見られない。 それに対し、龍階城には必要以上に長い縦堀が存在する。 龍階城の各曲輪は、規模がそもそも小さい。 小さな曲輪をたくさん重ね、城域を広く取っているのが特長だ。 ・・ということで、結局金ケ沢と龍階城は、異なった氏族が作った城と言わざるを得ない。 この地域には、戦国時代に”引田合戦”なる戦争があったと伝わっている。 そうなると確かに、龍階城と金ケ沢城が対峙していた事になるのかもしれないが、 管理人には、やはり、両城の標高差が気になる。 確かに、戦争はあったかもしれないが、両城間で火花を散らしたとは限らないのではなかろうか?。 金ケ沢とは無関係に、龍階城は築かれたのかもしれない。 長々と書いてきたが、結局縄張りは、なにも語ってくれなかった。 ハッキリ言えることができなくて、申し訳ない。 『縄張りは城を語る』を前面に、このホームページを運営しているわけだが、 なんだか自信がなくなってしまった。 ただ、ひょっとすると、この地域に、まだ未確認の城があるかもしれない。 それらを見つけ、総合的に考察してみると、もっと面白いことがわかるのかもしれない。 (消化不良で、龍階城コンプリート) |