2019










鹿沼市4  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします

①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある

久我城sk  『茶臼山城sk』



久我城sk 位置マピオンのリンク

主郭・二の郭以北は、ほとんどが壊滅 2014/10/20 
 

 下の写真を見て欲しい。
 国土地理院の ”久我城 ”の航空写真だ。
 
 久我城は、
1949年の頃には、主郭北方が開拓されていた。
 1986年の写真でも明らかなのは、主郭、二の丸以北は
 
丘陵を東西に分断するように、切り開かれていた。
 
 
 下の写真を見て欲しい___


        ◆国土地理院 航空写真
     
          
         1949年                 1975年
    
主郭の北側は、東西に丘陵が切り開かれている      東西に開拓された東半分は、畑となった

  
    
           
         1986年                   2010年
    再び主郭・二の郭北がいじられたようである         現在は再び植林が施されている
   
しかし、西の堀のラインがクッキリ見えるので、
    ここは開拓を少し免がれたようだ 
 
                            
 


  ____
ということで、何が言いたいかと言うと、
    
久我城の主郭・二の郭以北の遺構の解釈には、非常に注意が必要である。


  ということだ。

               
   





  
さて、ここは”そば處 久我の里”の駐車場。

駐車場の向こうには、金ケ沢城が見える。

駐車場の右手には、常真寺があり、

その裏山が久我城である。。








 


    

  以下は久我城の現地調査図である。

            





  常真寺から、裏山に潜り込むと、早速大きな堀と土塁が出迎えてくれる。
  これは
二の郭の土塁であるが、ご覧のように奥でクランクしている。

  典型的な
横矢である。
                     
★マウスをのせよう★
       
        COOL!










  クランクした土塁を郭内から見たところ。
  幅広になっていることから、
矢倉台的な役割があったのだろう。
    





 
 さて、二の郭をさらに超えると、
 
主郭の堀に突き当たる。
 大きな堀である。

 左の写真は、主郭北西のコーナー部。

 ちょっと写真ボケしているが、
 ここには二の郭同様、
 堀内に対し
明確な横矢が掛かる。

 
    












  これが、主郭の西縁の
横矢である。COOL!  

       ◆主郭横矢部 
★マウスをのせよう★
       
       


                           




   主郭の
横矢に対し、堀もクランクしている
   
堀内の道の跡も、この流れに沿っている
   ただし、これに伴う二の郭側の縁はダラっとしていて、クランクが明確でない。
   このため、鹿沼の城と館(鹿沼市業書7)では、この横矢を見落とししている。 
 
    ◆主郭横矢     
★マウスを乗せよう★
     






また主郭の虎口であるが、上記の横矢の存在から、
西向きの物が、かねてからのものであろう。
形態は図のように
橋の可能性が高いと思うが、
現状遺構のように、堀底を下るタイプだったかもしれない。

南と北に開口する虎口は、
主郭が、かつて畑だった可能性もある事から、
近代の造成の可能性がある。









 主郭北側であるが、
 冒頭の航空写真で紹介した通り、
 開拓地となっている。
 
写真の壁は全くアテにならない

 主郭北東縁辺部は、現在も、休耕地となっている





       

 左写真は、奥が主郭に当たるが、改変されている。


 






 さて、右写真は、
 城の
最北の堀の残欠と見られる。
 昔、伐採はされたものの、残存された部分と思える。
 
 写真右手が郭内であるが、冒頭写真の伐採状況から
 旧状は大きく改変されている。
 地形的には、南に向かって斜面が下る。


            






 久我城は横矢のハッキリ効いた、所謂典型的な戦国の城の形式を持つ。
 堀の規模も大きく、主郭まわりの遺構は非常に確認しやすい。
 しかしながら、前段にも書いたが、
 
主郭以北は、破壊されているため、旧状がわからなくなっている。
 歩くときは、その辺を注意して見学しよう。








 最後に久我城とポチっと。

 おれも、オヤジになったなぁ~





    





    

                    (久我城 ・おわり )
             








茶臼山城sk? 位置マピオンのリンク

え~!?これホント城の遺構にしちゃってイイの!? 2014/12/14 
 

 昨日は飲み会で、体調不調。
 しかし、せっかく自分の時間があるのだから、1,2時間で見れる城を・・・・


 ということで、やってきたのは、鹿沼市の茶臼山城。

        
        ◆正面の山が茶臼山城




   で、調査結果から言ってしまうと、


      
これ、本当に城の遺構なの?って感じ。

         ◆現況縄張図




       
  

  その理由を述べてみよう。


          ◆主郭方向を臨む





 
「本当に城の遺構なのか!?」と疑いたくなる理由は3つ。



 
 切岸に見える段は確認できるが、繋がりが無く、薄い
      

◆切岸?

左写真は切岸?のものであるが、
高くても1~2m程度。

しかも大半が連続性がなく
途中で途切れてしまう。


















     
 
 明確な導入路、虎口、横堀などの付帯要素が無い
   城であるならば、切岸以外に城を決定づける要素が何かしらあるはずだ。
   しかし、ここには無い


 
 2重堀と言われる遺構も、土取り跡のように見える

   ”鹿沼の城と館(鹿沼市業書7)”では、③の2重堀を、城としての決定打としているようである。

   しかし、2重堀の両端は極めて斜面がゆるくなり、縦堀とも言えない。
   堀状の溝は、どうしても道の跡に見えてしまう。
   また、中仕切りの土塁状のものは、土取りの残欠に見えてしまうのだ。
   しかも、堀の先の谷間には、段々畑の跡が数箇所残る。

  ◆2重堀の中仕切り土塁?              ◆堀切?状況
   

 
  


 遺構が薄いのは、”急ごしらえの陣城であるから”と指摘するHPなどもある。
 しかし、逆に、急ごしらえでもキッチリ残る陣城も、日本全国腐るほどある。
 よって、”急ごしらえだから遺構が薄いとは決して言えない”のである。



   
以上から、
    これらの城に見える遺構は、耕作地などの開墾の跡ではなかろうか?


 
 
 

 「茶臼山」は城郭関連地名である。
 茶臼が末広がり形状なので縁起が良いと、戦国武将が陣を張った場所に命名する。
 当城も、他のHPや公の資料で、城跡として数多く紹介されている。
 また、地元でも城があったと伝承があるそうである。。

 しかし、かつて本当にここに城があったとしても、

 
 
この現状遺構を、
  
  
果たして築城当時からの物として良いのか?

 
と、管理人は警鐘したい      

 
 ということで、当HPでは本城を掲載させてはいただくものの、扱いとしては
? 付けとさせて頂こう。

 
 

 
 

【解説】

  
堀切?から見える主郭方向は、こんな感じ。

  たしかに、切岸にも見える段々はあるが、何しろ気持ちが悪いくらいハッキリしない。
  
  管理人がこれらを城の遺構として直感的に感じられないのは、この全体的な雰囲気である。

  


 

         

  


 せっかく来たので、縄張り図は作成した。

 
しかし、切岸表現は、実線ではなく、敢えて点線またはケバ線のみで表現させて頂こう。
 何度も言うが、この切岸は実に怪しい。

         

  

  
 そのためか、写真も撮る気になれない。
 数枚しかないが、撮影場所を明記させて頂こう。


     たらたらした切岸
       



        
        切削面のはっきりしない堀と称される場所
        





        同じく切削面のはっきりしない堀と称される場所
           



              どれもこれも実に気持ち悪いものばかりだ








                      茶臼山、おわり!(怒)
  

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