2019
矢板市 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
『久保城?』 | 『幸岡城?』 | 沢村城 | 『旧沢城』 | 滝原台大溝sk |
『豊田城』 | 『寺山城?』 | 『成田城?』 | 堀江山城 | 『堀の内城』 |
松ヶ嶺城 | 『矢板城』 | 山田城 |
【解説】 この城もIと同様、矢板市の遺跡分布調査に存在が記されているが,現地調査では何も発見できなかった。 参考に位置を記す。 |
copyright.2005 masaki |
【解説】 幸岡城は、川崎城の北丘陵続きにあるとされているが、現地調査の結果、遺構は存在せず。 矢板市発行の遺跡地図で示してあった位置を示すことに留める。 ただ幸岡は、宇都宮城主・持綱が暗殺された地として知られる。 宇都宮氏系図(下野国史)に ・・略・・・塩谷郡幸岡原遊猟之刻、挙レ兵而討二持綱一干レ時応永三十年癸卯八月九日、 生年二十八、法名松山茂景、号二静光院 と、遊猟の地であったとはいえ、城館が近くにあった可能性は残る。 また、城の推定場所が推定地の通りを隔てた北側の台地という情報も頂いた。 調査の結果、こちらも後世の改変が激しく、残念ながら城の存在は確認できなかった。 |
幸岡城、2つめの候補 2013/03/23 |
【解説2】 2009年、筆者が川崎城の調査にたづさわっていた頃、発掘調査担当の方に、別の幸岡城・候補地を伺った事がある。 『東北自動車道から見える山の中に、削平地が複数有り、 私はそこが幸岡城では?と思っています・・・』 たしか、こんな事をお聞きして、気にはなっていたものの、なかなか調査のチャンスが無かった。 場所は、川崎城の北方。 前回管理人が縦走した経路から少し外れた、尾根上にあるという。 (図中オレンジ網掛けが、今回の候補地) 高速道路を通るたび、毎回のように見える場所なので、 いつも気になっていた。 今回、娘のサッカーの送り迎えで好機を得たので 調査結果を報告したいと思う。 この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである。 候補地を目指し、山に入る。場所はA地点。 なだらかな丘をのぼり、早速今回の候補地の直上に着いた。 早速調査開始。 すると、山頂から数m下った所に、 根切りのために作った土塁状のものが続くエリアを発見。 疑問に思いながら斜面を下ると、 なるほど、いきなり切岸が現れた。 そのあとも数段に渡って切岸が存在する。 切岸を幾重も重ねる城は各地で存在する。 しかし、ここの切岸は両端が山の斜面に吸収され、途中でなくなってしまう。 これでは、全く城として成立しない。 よって、 結論 ここは、城ではないだろう。 おそらくこの切岸は、緩傾斜を利用した、畑などの造作と考える。 誰か幸岡城がどこか教えてくれないかなぁ〜 (本来、城郭情報調査のコラムに載せる様な内容ですが、今後も幸岡城の存在を信じ、あえて本編に掲載しています) |
copyright.2005 masaki |
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◆沢村城主郭部 copyright.2005 masaki |
◆南面は緩やかな斜面のため堀の加工が多い ◆北面は箒川断崖となる |
【解説】 箒川沿いに見事な戦国末期の様相を見せる 谷あいの居館部分も美しい。 薄葉原合戦の拠点であろう。 |
【解説】 ”矢板市の遺跡地図(矢板市教育委員会)”に、旧沢城の記載がある。 現那須学園の北側がその跡という。 結論から言うと、城として認知できる遺構は現在無い。 現地調査では、確かに堀状のものに囲まれた農地がある。 しかし、地元の方に確認したところ、その堀は用水路として築かれたものという。 農地西側にも土手と堀状のものがあるが、 こちらは、明らかに用水路造成時に作られたと解釈できる。 当地は通称”バカッポリ”と呼ばれているそうであるが、 ”城関連”の地名からきたものでなく、用水路から来たものだと言う。 箒川沿いには、沢村城のような、切り立った崖を持つ小山が多く存在し、 そこに城が築かれるパターンが多いが、 この旧沢城の付近にはそれが無く、開放されている。 つまり、大田原方面から丸見えで、渡河点となりやすいポイントになる。 これの警護のために、築かれた可能性があるのでは?と考える。 ◆東側の通称 バカッポリ・・これを遺構として良いものか判断できない ◆西側の用水路沿いの土手と堀状のもの この旧沢城の西隣に、”明神様”と呼ばれる祠がある。 この祠の解説で、興味深い記述があったので紹介する。 この祠のある位置は、那須氏と塩谷氏の抗争境界であったという。 祠の北、川向こうには、薄葉が原の合戦場である。 『旧沢城』の存在に結びつく唯一の遺構といえないだろうか。 ◆明神様 ◆解説案内板 |
【解説】・・第2回 ついに攻略 |
2007年12月25日、クリスマスに、とうとうこの城を攻略することができた。 前回は、雨。 しかも10月後半であったため、草も多かった。 今回は、冬も半ばに突入し、見学するには申し分ない。 さて、滝原台の印象だが、やはり調査を進め、縄張りを書けば書くほど城に見えてきた。 |
《出陣》 |
インターネットで航空写真の古いものは・・・・ と検索してみると、昭和初期、米軍撮影のものがでてきた。 小さなものだが、これも逆L文字の堀がくっきりと浮かんでいる。 近年の開発のものでないことは確からしい。 ◆国土画像観覧システムより 今回もわたしの追跡戦闘車でのぞむ。 置き場所は前回と一緒。 滝原台大溝の東の林道部だ。 いざ、出陣・・・・・・・・・・・!! |
《虎口の西面の土塁》 |
さて、今回は、西側に続く段差が城のものであるかを判断するのがメイン。 虎口と思われる部分より、再検索を開始する。 すると、雨の前回では気づかなかったが、 虎口スロープ西の面の壁に土塁が伴っているのを確認できた。 第1回目の解説の繰り返しになるが、 この土塁と東面の湾曲した壁面から虎口に対する横矢がかけられている。 ◆虎口部分拡大図 |
《西面の切岸》 |
と、すると、この虎口西面の切岸は植林や畑でできたものではないな・・・・・。 と、すると、西面から連続する切岸は、すべて往時からのものという事になる。 と、すると、切岸前面は、堀の可能性もある。 空堀は全て埋まってしまったのであろうか・・・・??? ◆西面の切岸 ◆西面の切岸写真 ◆切岸前の怪しい平坦地・・空堀か?? 考えが巡る。。。。。 考えながらペンを動かす。 こういう時間が実に楽しい。 至福の時間が過ぎていく。 この切岸は、やはり城のものであろう。 逆L字の空堀と、そこから続くこの西面の切岸。 これが、この城の全てであろう。 機会があったら是非発掘してもらいたいものだ。 (※注)西面の切岸のさらに西、TOPの図の中でAから100mの地にも、道状に残る跡がある。 しかしながら、今回は主要部との関連性から、城としての判断を控えている。 |
《怪しい対岸の山》 |
さて、帰りながらふと山の対岸を目にする。 左の写真は下地図の三角点225.5のところから、 西面を望んだものである。 『こっちにあるなら、あっちにもあるのかな? 谷を挟めばもっと強力な防御施設となるはず』 確かめなくては・・・・・。 地図をみて、この滝原台大溝と東北線を挟む対岸で 城となりそうなピークを歩いてみることに・・・・・。 地図で当たりが出そうな場所を探す。 滝原台大溝に対応し、セットで防御線となりそうなピークを すべて歩いてみた。 ◆国土地理院 地図閲覧サービスより ×印は調査して、遺構の発見ができなかったところ ■結果■ 何もなし! 私の勘も鈍ったものだ。城の遺構に結びつくものは何も無い。 ついでに言うと、滝原台大溝から岡城に続く稜線上にも、遺構は発見できなかった。 |
《滝原台大溝の意味》 |
◆主郭を囲む大きな堀 ここで滝原台大溝の意味を考えてみる。 まず、城として守るべき方向はどちらだろう。 いわずと知れた南面である。 大溝部分と、ダラダラと続く”西面の切岸”。 ここには、前面に堀の可能性もあると考えた。 なぜ南に向いているのだろうか・・・・? また、城内部の加工の状況から、きわめて臨時的な城であることが考えられる。 塁線のみの加工で、他はほぼ自然地形と言ってよい。 次に周囲を見てみよう。 以下は、滝原台大溝周辺の航空写真である。 ◆国土画像観覧システムより 宇都宮方面から矢板市内(川崎城・御前原城管内)に入るには、現在国道4号、JRが(青い線)通る。 私はこれを見て、この城の意味を直感的に感じた。 滝原台大溝が、岡城とセットとなって、南から来る敵(緑線)を意識していることである。 矢板市内に入る直前のこの丘陵両端に城を築くことによって、 2股に分かれるであろう敵の進入を食い止めているのである。 大きく言えば、この岡城-滝原台大溝を結ぶ丘陵全体が、大きな土塁となっているのである。 |
《まとめ》 |
では、なぜこのように宇都宮方面に意識が向いているのであろうか? 川崎城を拠点とする塩谷氏(以下本家塩谷氏)の宿敵は那須氏であり、本来意識するのは北方面(那須方面)だからである。 ここで、考えられるのは、喜連川塩谷氏との関係である。 喜連川塩谷氏は、矢板の本家塩谷氏と同族にありながら、那須氏方につき、しばしば本家塩谷氏との争いもおきている。 滝原台大溝の南には、喜連川塩谷氏の乙畑城や、大槻城(推定であるが)が存在しているのも気にかかる。 筆者はこの同族との争いの関係から、 ある時期、南方面に緊張が走ったと想定する。 この緊張のときに滝原台大溝は、 堀江山城の死角をサポートする形で築かれたのではなかろうか? 滝原台大溝下を敵に通過されてしまうと、本拠川崎城は目前である。 片側が岡城単独で守らせているのに対して、滝原台前の谷が、堀江山・滝原台大溝の2段構えで厳重に警戒しているのは、そうした配慮からであろう。 この同族との争いだけが理由ではないかもしれない。 単に川崎城の弱点ともいえる南側の警備に当たらせた番所的な位置づけも想定されよう。 とにかく矢板市にとって、貴重な遺跡であることは間違いなさそうだ。 (滝原台大溝 完) |
【解説】 ”矢板市の遺跡地図(矢板市教育委員会)”に、豊田城の記載がある。 下記”位置(マピオンへのリンク)”まわりの山間部がその指定場所である。 現地調査の結果、城として認知できる遺構は皆無である。 今後の精査に期待したい。 ちなみに私の無駄足となった山は、後学のために下図に位置を示す。。 |
opyright 2006 masaki ◆本図は国土地理院1/25000地形図を参考に、管理人がフリーで作成したものである。 図の×印が踏査地点。遺跡地図では、この辺り一帯を「豊田城」としていた。 |
【解説】 ”矢板市の遺跡地図(矢板市教育委員会)”に、寺山城の位置が記載されている。 出典は不明だが、寺山観音の北裏山が城跡ということになっている。 現地調査の結果、寺山観音の北裏山、また観音から東に続く山続きも調査したが、 城に結びつく遺構は発見できなかった。 |
【解説】 矢板市の遺跡分布調査には、その存在が記されているが、現地調査をしたところ、どう考えても遺構は発見できなかった。 場所違いか? 参考に位置を記す。 |
copyright.2005 masaki 県道30号から見る 堀江山城遠景 |
【解説】 川崎城の南嶺続きのピークに存在し、見事な遺構を有する。 曲輪取りは川崎城よりコンパクトで、横矢、横堀が発達する。 西面の二重堀は圧巻である。 川崎城より、構築時代は下るようである。 川崎城との位置関係は、下記AのD部分が当城。 |
◆堀之内城碑 |
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【解説】 長井りんご団地の最奥。 長井小学校の裏手の道路傍らに、石碑が立つ。 この石碑が建つ場所が、土塁のようにも見えるが、判然としない。 初代城主渡辺氏、室町中期と碑は示す。 |
copyright.2005 masaki |
【解説】 尾根を分断する大きい堀切の東面に、遺構は広がる。 北の谷と、南に広がる谷からの侵入に備えて、曲輪を配置する。 虎口、横矢、横堀等は、あまり発達していない。 主郭東側の虎口は破壊されているようである。 |
◆矢板市上伊佐野持宝院に残る、伝松が嶺城門 |
【解説】 リンク先である、余湖くんのお城のページに紹介されている。 それまで、全然知らなかった。 塩谷氏の家臣、矢板氏の城跡ということである。 土塁(古墳)の一部が残り、 下記写真のように、神社が奉られている。 全貌は全くわからない。方形館のような城だったのであろうか? |
←湿地帯 ←階段状の曲輪 copyright 2006 masaki |
【解説】 山田城は、箒川から約500m西に入った、標高277.1mの小山にある。 山の周囲には、字『内根小屋』・『屋敷添』・『向根古屋』と、城館関連地名が散らばる。 調査の結果、山頂を中心に、北〜東〜南面にかける山腹には、 すべて大規模な遺構が存在することがわかった。 山田城の大規模な空堀は、逆コの字を斜面を描く。 コの字の開放方向が城下(根古屋)になるのだろうか? 開放方向には、会津中街道が走っている。 これは、近世に整備されている街道であるが、 実は、中世にまで遡って街道沿いに城下ができたのではないか? 空堀のコの字の開放方向と、街道の方向の一致。 城下は間違いなしと思っていた。 しかし・・・・ ◆山田城を東方から望む 11月21日に再調査を実施した。 すると、城の東山麓は、実はかなりの湿地帯であることが判った。 水田になっていないところでは、あちこちから水が湧き出し、かなり足をとられる。 この状態では、この方面山麓に居住空間を設けるのは難しいだろう。 さて城の南側にまわってみると 山麓には、広い階段状の曲輪が広がっている。 中枢部とは造りの雰囲気がかなり異なる。 ここの字名は、先ほどの『内根小屋』だ。 どうやら、この城の城下はこの『内根小屋』一帯と見たほうが良さそうだ。 空堀の開放方向とは異なるのが、印象的である。 ◆逆コの字の空堀ライン・・・縄張り図・地形図と対応する コの字の北の空堀は壮大で、ものすごい土木量である。 写真を携帯で撮ってみた。 雰囲気がまるで伝わらないが、実に戦闘的な城である。 |