2019
那須烏山市 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆@記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆A『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆B図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
入江野城sk | 根小屋城sk |
入江野城sk ちょっと長いです!
【プロローグ】 |
「ぜぃ、ぜぃ、ぜー。 ここか、ここなのか・・・・ 今度こそ、入江野城なのかぁ??。。。。。」 がさ、がさ、がさ。。がさ、がさ。 「どあっつ!」 |
「げげっ」 で、でかっ!!? |
※注 出し惜しみをするわけじゃありませんが、当城には色々ありまして、少々お話が長くなります。 |
■出し惜しみしやがって!いちいち読むのメンどっちーと言う方はこちら。→入江野図面
■まあ、読んでやろうという方は、こちらからどうぞ。↓
【小白井−1 09/04/30 9時から10時頃】 |
入江野城の所在地は明確ではない。 栃木県の城調査のバイブル「栃木県の中世城館跡」と「那須の戦国時代」。 『塙古城』と荒川を挟んだ河岸段丘上にあることは間違いない。 しかし、両書の城の所在地は異なっていた。 「栃木県の中世城館跡」の位置図は、小さくて非常に見難いのだが、下図のAあたりと想像できる。 「那須の戦国時代」では@だ。 ◆入江野城周辺図 位置(マピオンへのリンク) |
管理人はまず、「那須の戦国時代」が示す@の場所から調査を開始。 車のナビに場所をセット。 天気が良く、心地よい田園風景の中をひた走り am9:00。 私は、入江野城のある丘にいた。・・・・・(つもりであった。) まず、@の南に走る細い林道に入る。 ここに「小白井配水場」があり、車を止める。 「小白井」? んんっつ?? 御城居→ごしろい→こしらい→小白井 いかにも、城のありそうな字名ではないか! あたりを見回すと一軒の民家がある。 農作業をしている方がいらしたので、 『すみません、この辺で入江野城という城跡は知りませんか?』 と聞くと、 『俺は、地元じゃないから、しらないなぁ〜』 という話から、どこから来た?何をしてるんだ? という話になり・・・・20分ほど話し込んでしまった。 この方の名前はSさん。 後ほど、再び登場することになる。 ・・・・とにかく、尾根を一本一本調べるしかないな。 期待を胸に山に入った。 |
【小白井ー2 09/04/30 10時から12時頃】 |
手持ちの地形図はかなりの年代物であった。 調査していると、地形が、今一つ周りの景色と一致しない。 『地図が古いからかな。改変が激しいんだろう。。』 そう、思いながら、管理人は@の地点が、Sさん宅前だと推定した。 とすれば、ここから北東に伸びる尾根が『入江野城』である。 がさがさがさ・・・。 春が到来して1ヶ月以上、地球温暖化も加わり、予想以上に藪が激しい。 がさささ、がさがさ・・・・・・ 『ここには、ないな。』 しばらく尾根を下ったが何も出てこない。 管理人はここで調査をあきらめ、尾根を再び登り、一つ南の尾根に取り付く。 がさささ、がさ・・・・・ 『ここにも無い・・』 再びあきらめ、また登る。 さらに、南の尾根。 河岸段丘から荒川に向う尾根は結構多い。 『だ、だめだぁ。無い、何も無いぞ!』 見つからない。。。。流れるアセ。気持ちはアセる ”そうだ!配水場のもっと北の尾根かも・・・?” 管理人は、Sさんち(@の地点)の北から荒川に伸びる尾根を探すことにした。 再びSさん宅を横切るとき 『どうだい?!あったかね?』 とSさんに声をかけられた。 「まだ見つかりません!」と、私は明るく答えた。 |
【小白井―3 090430 12時から14時頃】 |
配水場北の尾根は、山の上の集落から取り付くことができた。 尾根を下る。 すると。。。。。。。 『んんっ?土塁か?』 @の北の尾根には、確かに城郭っぽい遺構が存在したのだ。 『これか!?』 筆者は、ここで図化をはじめる。 かなり崩れた遺構だが、この手の河岸段丘状に築かれる城は崩落が多い。 現状は曲輪も異常に細いし、堀切?も浅い。 『こんなもんかな・・』 そう思いながら、約1時間ほどで図面を書き上げた。 ◆堀切状の遺構? しかし書き上げたものの、納得がいかない。 それは、調査した尾根下には、川が流れていることであった。 地形図上には、川はないし、谷下に見えるはずの集落もない。 『変だなぁ。。。。おかしいなぁ。。。?? まあ、地図も古いしな。時代と共に変わったかな。』 そう自分に言い聞かせながら書いたのが、この図である。 ※注 図は、あとでまた出てきます 『本当にこれが、入江野城なのか・・・』 図面を書きながら、実はいまひとつ納得がいかない自分がいた。 納得はいかないが、その気持ちをねじ伏せて、 『まあ、こんなものだろう。俺は入江野城を攻略したんだ』 と、ペンを走らせながら納得してしまう弱い自分もそこにいた。 安全のため、携帯のGPSで位置を確認しておくことにした。 北緯36°41’ 18.716” 東経140°03’15,251” 色々気にしてもらったので、御礼を言ってから帰ろうとS宅を再び訪ねた。 『どうだい?!城はあったかね?』 と、Sさんにまた声をかけられた。 「はい一応、まぁ・・・・」 と、私。 『ほう、そうかい!!良かったじゃない。 じゃあ、うちでコーヒーでも飲んでいきなよ。』 世の中には奇特な方がいるものである。 この言葉に、すっかり私は入江野城を攻略している気持ちになってしまった。 |
【Sさん邸 090430 14時から15時頃】 |
Sさんは疲れている私を、暖かく迎え入れてくれた。 冷たいコーヒーを頂きながら、よもやま話に花が咲いた。 Sさんは、早期退職をし、この山の生活を始めた。 家族を埼玉に置き、一人暮らしをしている。 10年ほど前に写真のログハウスを建てた。 憧れの生活とはいえ、 当時は電気も水道もなく、大変な生活を強いられたと言う。 私をコーヒーに誘ったのは、 全く辺鄙なこの地に、のこのこ山歩きをしている私に自分と共通の匂いを感じたからだと言う。 そんな話をしながら、広い庭を案内してもらううち、 『こしあぶら』や『山アスパラ』など、山の幸もたくさん頂いてしまった。 気付くとSさん宅に既に1時間ほどお邪魔してしまっていた。 「じゃあ、帰ります。ご馳走様でした」 『またいらっしゃいね。 何せ、人と話すのが本当に久しぶりだったもので、 引き止めちゃって悪かったね。』 「はい、また寄せてもらいます。」 入江野城も攻略したし、山菜までもらった。 私は、心地よい気持ちで帰途についた。 |
【誤認発覚ー1 090430 16時から17時頃】 |
家に帰ると、なんとなく「納得がいかない」気持ちが再び蘇って来た。 ”一度確かめておこう” そう思って国土地理院の地形図のホームページを開く。 現地で計測した携帯のGPSデーターは、 北緯36°41’ 18.716” 東経140°03’ 15,251”であった。 しかし、国土地理院地形図上の@データは、 北緯36°40’ 4” 東経140°04’ 4” 1’ も違うではないか!。 ち、ちがうぞ!これ?! 私はあせった。 じゃあ、私が行った場所はどこなんだ!? 地形図を取り出した。 改めて折りたたんでいた地形図を広げ、私は愕然とした。。 → ◆折りたたまれた地図を広げると・・・ 広げた地図には、なんと「小白井」の字名が刻まれているではないか! しかも、 現地で納得できなかった川と尾根の関係、まわりの道路、 そして集落の関係が納得できる場所があるではないか!(下図●部) 慌てて、さっきのGPSデーターを比較する。 現地データは 北緯36°41’ 18.716” 東経140°03’ 15,251” 地形図のデータは 北緯36°41’ 18” 東経140°03’ 15” ぴったりだぁ〜〜!! し、しまったぁ!誤認だぁ!! |
【誤認発覚ー2 090430 17時から18時頃】 |
先入観とは恐ろしいものである。 今回の失敗は、 1、まずナビのセット位置を間違えたこと。 2、地形図を折って周囲の地形・情報が分からなくなっていたこと。 3、今回の誤認調査の場所と入江野城と言われている@Aの環境があまりにも似ていたこと。 両地点とも、河岸段丘をS字に上がる道があり、そこから河岸段丘上に沿う5m未満道路も存在していた。 これら3つの要因が重なり、誤認調査となってしまった。 ◆誤認調査域 ◆地図を折って持っていたため、 小白井が見えなくなっていた 改めて地図を眺めれば、小白井配水場は地形図上に記載されているし、Sさん宅も分かる。 地形図上の等高線の流れも、現地と寸分変わらず納得できる。 つまり、私は上図の”誤認調査域”を入江野城として調査していたのだ!。 ■誤認調査図・図面へのリンク 下図で×は全く遺構の無い場所 ”遺構??”が図面に描いた部分 これじゃ、入江野城なんか、見つかるわけないよ。。。 |
【再調査 090501 8時頃】 |
今日はゴールデンウイークの中日。 家族と旅行の約束をしていた日である。 1000円となった高速の渋滞を避け、今晩から新潟に向けて出かけることにしていた。 しかし、私は朝から昨日の失敗が気になっていた。 というか、あまりに悔しくて、昨夜も眠れなかった。 ・・・・・・・・やっぱ、もう一回行きたい。 行ってもう一度、入江野城の真の場所を確かめたい。 時計はまだ朝の8時である。会社は休み。 新潟への出発まで、まだ時間はある。 ・・・・・・・・・・・・よし、行こう! こう思い立った私は、既にハンドルを握っていた。 |
【再調査ー@ポイント 090501 9時頃】 |
今度こそ間違いない場所だ。 GPSで@の位置を再確認して、調査再開。 最近の暖かさで、随分草が伸びた。 今シーズンはこれで最後かな? そう思いつつ、遺構をさがす。 「那須の戦国時代」の示すこの場所。 期待に胸を膨らませる。 しばらく歩くと道に出る。地形図にも載っている。 この道は、かつてかなり使われた道のようだ。 幅3メートルほどで、空堀のように地面を掘り下げて、 九十九折れ状に作られている。 しばらく道をたどり、尾根の先端、集落に近い所まできた。 ない!何もない。 こういう誤情報を身を持って体験すると、本当にこの情報提供者は、 この場所にちゃんと調査しにきたのだろうか?と疑いたくなる。 愚痴はさておき、 ”まあ、この手の事はありがちだ” と心を入れ替え@まで戻る事にした。 しかし、戻りの登りのきつい事。 昨日からの空しさと、今日の落胆で疲れが倍増する。 次だ、次! 空(から)元気を出す。 次は@の南の隣の尾根に取り掛かる。 がさがさがさ・・・・・ 河岸段丘の城はどうしても尾根の先端までいく必要がある。 ない!ここも。 再び登り@まで戻る。 流れる汗。 流れる空虚な時間。 気合いを入れて今度は@の北の尾根。 こんどこそ! がさがさ・・・・・・・・・ ない!ここも。 更にその北。 ない!ない!ない! いぃ加減にしてくれえ〜!(怒) ぜぃ、ぜぃ。ぜぃ・・・・・・・・ |
【再調査ーAポイント 090501 11時頃】 |
「ぜぃ、ぜぃ、ぜー。 ここか、ここなのか・・・・ 今度こそ、入江野城なのかぁ??。。。。。」 がさ、がさ、がさ。。がさ、がさ。 「あったぁ!」 |
■入江野城縄張図 copyright.masaki.2009 |
入江野城だ。!! |
@の調査で精も根も使い果たした私は、最後の望みをかけて 候補地Aに向った。 ここは「栃木県の中世城館跡」で比定している場所。 ただし、「栃木県の中世城館跡」の分布図は異常に小さい。 ○で囲った円の中であることは間違いないものの いまひとつ場所が特定できない。 まず、ヤマギシ農場の北の林道に車を置かせていただく。 この廃屋の下の尾根がA入江野城候補地。 しかし、この廃屋裏はスゴイ藪となっていた。 それでも、草薮を掻き分け、尾根を下る。 早速巨大な堀切にぶつかった。 恋人をやっと見つけたような気分。 巨大な堀切の2本め! 間違いなく入江野城と確信する。 結局下図位置に入江野城があることになる。 緑線が堀切だ 「栃木県の中世城館跡」には、遺構面の解説が載っている。 内容は、ほぼこの遺構と合致しており、 確かに「栃木県の中世城館跡」の筆者は、この場所で、この遺構を見ている。 やっぱ、最初っからAを調査してりゃよかったぁ〜!! 入江野城を遠望 ■PS でも、これから本当に新潟行くのぉ〜? 実は3日間連続で山登りをしている。 すっごい疲れているのだが・・・・・ でも、結局行きました。(詳細は日記にて) |
【解説】 やっと見つけた入江野城。 長〜い前振りのあとで恐縮だが、 この城のすごい所は堀切だけ。 とにかく河岸段丘の頂上部につながる尾根は、 図のような巨大な堀切2本で分断している。 高さは10mほどもあろうか。 これは、有無も言わず圧巻である。 それに対し、平野部に近い方はどうかと言うと (図の巨大堀切北側) 曲輪の配置は極めてシンプルで、堀切も浅い。 主郭は3本の尾根が集合する頂点である。 大堀切に通じる頂点は、物見用に削り残している。 主郭に直接付随する曲輪が2段ほどあり、 北側に長く伸びる尾根には、尾根の形状に合わせて、細長い曲輪を 展開させている。 その先は平野部につながり、現在は民家となっている。 入江野城は、山を降りきった部分に住居を設け、その背後は山城が 監視するという形の物であろう。 (入江野城完) ※前振りばかり長くて、解説が尻つぼみ気味になってしまった。ご容赦願いたい・・・管理人 |
【後述談2013/02/02記】 図書館に『南那須の歴史と遺跡』という本を見つけた。(少々記憶が曖昧だが) 町の本であるが、そこに入江野城の縄張り図が掲載されている。 城あとの場所は明確にされていないものの、この本に出会っていたら、こんなに苦労しなくても良かったかもしれない。 |
根小屋城・破壊された城 2010/02/06 |
→北 copyright. 2011 masaki |
【解説】 今日は、烏山郷土資料館に烏山城の図面を届けようとでかけたが、休館日であった。 パンフレット上は開館日なのに・・・・ と言う事で、その後の娘のサッカーの送迎時間まで、2時間ほど時間がある。 大して、時間も掛からないだろうと、たかをくくって、根小屋城を攻めに行った。 しかし、回ってみると、結構な大きさである。 時間がドンドン無くなるあせりで、多少、抜け漏れがあるかもしれない。 ご容赦願いたい。 この城は那須氏の氏族、大桶備前守義康が15世紀に築き、那須氏の改易まで続いたとされる。 ”大桶”というのは、地元の地名でもある。 ◆城址案内図・・・掲載されている縄張り図面はちゃんと肝を捕らえている。 那須城カントリークラブの工事で、主要部分を大きく失ってしまった。 現在、出曲輪と主郭周りの堀(横堀、縦堀)がわずかながら残っている。 縄張り図にはこの案内図の縄張り図を参考に、主郭、2の郭、3の郭を描かせていただいた。 もし全体が残っていれば、結構な規模の城であったろう。 ◆主郭を望む まったく持って残念である。 ◆城下の風景 |